阪急電車の大宮駅から南東に約3分歩いたところに空き地のような場所があります。
両脇を別の建物に挟まれ、正面には瓦葺の塀があり、中には入れないようになっています。
この空き地のような場所は、かつて、フランシスカンチャペルがあったところです。
妙満寺の跡地に建てられたフランシスカンチャペル
下の写真に写っているのが、フランシスカンチャペルです。
塀の前に説明書があるので、読んでみましょう。
この付近一帯はかつて妙満寺の地所でした。
妙満寺は、日蓮宗のお寺で、応仁の乱(1467年)や天文法華の乱(1536年)で移転を繰り返し、天正11年(1583年)に豊臣秀吉の命で寺町二条に移りました。
現在は京都市左京区の岩倉に境内を有し、雪月花の三名園の一つに数えられる雪の庭が有名です。
その妙満寺の跡地をフィリピン総督の使節として来日したスペイン人フランシスコ会司祭ペトロ・バブチスタが、豊臣秀吉に謁見した際に拝領しました。
1594年に「天使たちの聖母」に捧げられた教会堂と修道院を建立し、さらに2つの施薬院も建てられたそうです。
5名のフランシスコ会会員と3名の少年を含む15人の日本人信徒がこの地で、アシジの聖フランシスコの精神に従い、貧しい生活を送りつつ、布教と治療活動にあたっていたとのこと。
しかし、慶長2年(1597年)にスペイン船サン・フェリペ号事件をきっかけにフランシスコ会関係者は投獄され、もう1名のメキシコ出身のフランシスコ会員、大坂で逮捕された3名のイエズス会関係者を加えて、京都、大坂、堺を引き回された後、長崎の西坂まで護送され、途中で加えられた2名の日本人信徒を含む26名は磔(はりつけ)にされました。
サン・フェリペ号事件は、前年に土佐に漂着したスペイン船のサン・フェリペ号の積み荷が、スペインは日本を征服しようとしているとの噂から豊臣秀吉に没収された事件です。
この事件を契機に秀吉は、禁教令を出し、それが26名の磔へと発展しました。
これが日本最初のキリスト教殉教者です。
1862年にローマ教皇によって、26人はカトリック教会の聖人と宣言され、二十六聖人の殉教と呼ばれるようになります。
フランシスカンチャペルの敷地は、二十六聖人の殉教を今に伝えるために残されているのかもしれません。