京都府宇治市、京阪電車の宇治駅を出て北に5分ほど歩いたところにお茶と宇治のまち歴史公園茶づなという施設があり、様々な体験プログラムが用意されています。
その茶づなの後ろに小高い丘があり、木々がうっそうと茂っています。
見るからに何かの史跡と思われる小高い丘は、宇治と関係が深い菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)のお墓です。
菟道稚郎子尊宇治墓
小高い丘のふもとにやって来ると、お墓に入る入り口があります。
そして、入り口から敷地内に入ると、細長い参道が現れます。
参道をまっすぐ進んでいった先には、宮内庁の案内板が設置されており、「應神天皇皇子菟道稚郎子尊宇治墓」と書かれています。
菟道稚郎子尊宇治墓(うじのわきいらつこのみことうじのはか)は、その名が示すように応神天皇の皇子の菟道稚郎子のお墓です。
お墓の前には、それを示す石柱が立っています。
菟道稚郎子には、大鷦鷯命(おおささぎのみこと)という兄がいましたが、応神天皇は、菟道稚郎子を次の天皇にすることを定めていました。
なぜ、弟に皇位を継がせるのか疑問に思うかもしれませんが、かつての日本では、末子相続が一般的でしたから、当時の慣習としては当たり前のことでした。
できるだけ若い者が後を継いだ方が、1代の活躍期間が長くなりますから、後継者選びの手間が省け合理的という利点が末子相続にはあったと考えられます。
ところが、菟道稚郎子は、百済から渡来した阿直岐(あちき)や王仁(わに)などを師に迎えており、儒教や論語を学んでいたことから、皇位は兄の大鷦鷯命が継ぐべきだとし、3年もの間、お互いに皇位を譲り合ったとされています。
最終的に菟道稚郎子が自害したことで、大鷦鷯命が皇位を継ぎ、仁徳天皇となりました。
菟道稚郎子尊宇治墓は、よく見る天皇陵と同じ形をしています。
後ろの木々が神々しく見え、他の天皇陵より、どことなく立派に見えますね。
浮舟宮跡
宇治墓の隣には、石碑が置かれており、こちらには「浮舟宮跡(うきふねのみやあと)」と刻まれています。
この辺り一帯には、かつて浮舟宮と呼ばれた古社があったそうです。
社は、江戸時代中頃に廃絶し、三室戸寺(みむろとじ)によって「浮舟之古蹟」碑が建てられました。
その後、明治22年(1889年)に宮内省が、決め手は欠くものの、宇治川や浮舟の古蹟に近いことを理由にこの地を菟道稚郎子のお墓の場所と治定(じじょう)しました。
「浮舟之古蹟」碑は、近年の開発に伴い、三室戸寺の境内に移設されたそうです。
宇治観光というと、京阪電車の宇治駅やJR宇治駅の線路より東側を中心に見て廻ることが多く、線路の西側は、あまり訪れる人はいません。
宇治墓などの史跡も見られますから、時間があれば、線路の西側も散策したいですね。