9月中旬に京都市伏見区の真宗院に参拝した後、少し西に建つ嘉祥寺にも参拝しました。
嘉祥寺は、深草聖天(ふかくさしょうてん)の愛称で親しまれている天台宗のお寺です。
あまり観光客が訪れることはなく、地元の方に愛されているといった感じの小さなお寺ですね。
狭くても歴史あるお寺
嘉祥寺には、京阪電車の藤森駅から北東に約7分歩くと到着します。
真宗院の山門の西に立つ「日本最初 歓喜天」と刻まれた石柱は、ここから先に嘉祥寺があることを示しています。
石柱から西に約50メートルほど歩くと、南向きに嘉祥寺の門が開いています。
境内に入ると、立派な松が目の前に、そして、奥に本堂が建っています。
足元には、夫婦が仲良く肩を寄せあっている小さな石像が置かれていました。
このような像は、道祖神を祀っている寺社でよく見かけますね。
それでは、本堂にお参りをしましょう。
嘉祥寺は、嘉祥4年(851年)2月に文徳天皇が先帝の仁明天皇の菩提を弔うために、その陵の傍らに清涼殿の建物を移して寺としたものです。
年号を寺号にしているお寺には、延暦寺、仁和寺、建仁寺などがありますが、数は少ないです。
そして、年号をお寺の名にすることは、そうそう許されることではないので、嘉祥寺は、延暦寺などと並び格式の高いお寺だったことがわかります。
元慶2年(878年)には定額寺となって官寺の扱いを受け、寺域も広大だったのですが、平安時代後期に衰退し、仁和寺別院となっています。
また、室町時代には、応仁の乱(1467年)によって焼亡しています。
境内には、白砂とコケがきれいなちょっとした庭があります。
供養とカエデ。
寛文年間(1661-1673年)にかつて深草十二帝陵の管理にあたっていた安楽行院を空心律師が再興し、その際、同院境内に聖天尊を祀って嘉祥寺を再興しています。
当寺が深草聖天と呼ばれているのは、これが理由なんですね。
元禄12年(1699年)には、勅許を得て本堂が上棟されています。
境内の西側に建つ鎮守社。
現在の嘉祥寺は、かつての嘉祥寺とは位置も寺域も離れているため、ただ、その名を継ぐだけとなっているとのこと。
もしも、応仁の乱がなければ、伏見を代表する名刹として、今も大勢の人が参拝していたかもしれませんね。
嘉祥寺を出て、西に少し歩き、深草十二帝陵にやって来ました。
正式には、深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)といい、後深草天皇以下十二代の天皇が埋葬されています。
嘉祥寺に参拝した時には、深草十二帝陵にも立ち寄りたいですね。
この後は、藤森神社に参拝します。
なお、嘉祥寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。