平安京には、東市(ひがしのいち)と西市(にしのいち)という2つの市場がありました。
人が多く住む場所には、市場は欠かすことができませんから、平安京でも東西の市が設けられていたんですね。
市場のうち西市の西側には野寺小路(のでらこうじ)という小路が面しており、現在その場所には平安京野寺小路跡を示す石碑が立っています。
西大路七条の南にある平安京野寺小路跡の石碑
JR梅小路京都西駅から七条通を西に約10分歩くと西大路通とぶつかります。
その西大路通を南に少し歩き、1本目の交差点を西に曲がったところに平安京野寺小路跡と刻まれた石碑があります。
野寺とは、この付近に実在した野寺に由来すると伝えられています。
野寺というお寺の名前を聞いたことがないかもしれませんが、野寺は、京都最古のお寺である秦氏が建てた広隆寺の前身と伝えられています。
今は、石碑が残るだけとなっていますが、かつては、この辺りに立派なお寺が建っていたんですね。
平安京の東西の市は、市司(いちのつかさ)によって管理運営された官営の市でした。
公益社団法人京都市埋蔵文化財研究所のリーフレット京都 No.65によると、市の管理、運営、維持については、平安時代の法令書である延喜式に細かく規定されたいたようです。
東市は毎月15日まで、そして、西市は16日以後に開かれるといった具合に東西の市は交代で開かれるようになっていました。
市で扱われる商品もそれぞれ決められ、商品によっては東西の両方の市で扱われるものもあったようです。
東西の市は、平安遷都(794年)の4ヶ月前に長岡京から移転されたということですから、都市の造営にとって市場は重要な存在だったのでしょう。
東市は、左京七条二坊三・四・五・六町に「市町」が、一坊十三・十四町、二坊二・七・十一・十二町、八条二坊一・八町に「外町」があり、合計十二町を占地し、西市は朱雀大路を中心に対称する位置に設けられていました。
市内には、市の守護神として市姫神社もあったそうです。
平安時代中期になると、左京は発展しましたが、西市がある右京は衰退していきました。
そこで、承和2年(835年)9月に西市だけの専売品を定めたり、同8年に西市の東北角に右坊城出挙銭所(うぼうじょうすいこせんじょ)という金融機関が設置され、西市の活性化が図られました。
しかし、右京の衰退は止まらず西市は早くにさびれました。
ひっそりと立つ平安京野寺小路跡の石碑を見ていると、さびれゆく西市の寂しさを物語っているように感じられます。