紙すきが行われていた紙屋川

京都市の中心部を北から南に流れる堀川。

堀川には、西堀川と東堀川の2つがあり、現在の堀川は東堀川を指します。

では、西堀川はどうなったのかというと、紙屋川という名で呼ばれています。

その紙屋川の清流は、平安時代に紙すきのために利用され、紙屋院という製紙工場も造られていました。

再生紙を作っていた

京福電車の北野白梅町から今出川通を東に約5分歩くと、北野天満宮に到着します。

その北野天満宮の境内には、豊臣秀吉が築いた御土居の跡があり、紙屋川は、その御土居の石垣に沿って北から南に流れています。

紙屋川

紙屋川

以前に紹介した書籍『タイムトラベル もうひとつの京都』によれば、紙屋川で紙すきをするための紙屋院は、北野天満宮の西側にあり、平城天皇が設置させたと伝えられていますが、嵯峨天皇の設置だとする説もあるとのこと。

紙屋川ですかれた紙は、紙屋紙と呼ばれ、その大きさは縦60cm、横36cmで、年間2万枚がすかれた上質の和紙だったようです。

しかし、平安時代中期以降は、各地で製紙が盛んになったことから、原料の調達が難しくなり、紙屋院での紙すきは減産していきます。

そして、紙の質も落ち、紙の色がねずみ色になっていきました。

やがて、平安時代末期になると、紙屋院では、再生紙を作るようになります。

当時、再生紙は宿紙(しゅくし)と呼ばれ、紙屋紙と言えば宿紙を指すようになっていました。

鴬橋

鴬橋

紙屋紙がねずみ色になったのは、再生産に使う元の紙に墨で文字が書かれていたからです。

そのため、紙屋紙は、薄墨紙とも呼ばれていました。

平安時代、紙すきが行われていたといっても、和紙は貴重品だったため、紙屋院では、古紙や反故(ほご)紙をリサイクルして再生紙を作っていたようです。

江戸時代になると、宿紙の生産は西洞院五条付近となり、西洞院紙と呼ばれるようになりました。

現在、北野天満宮の御土居跡を流れる紙屋川の両岸には多くのカエデが植えられており、秋になると見事な紅葉を見ることができます。

秋の紙屋川

秋の紙屋川

紙屋川の水源は鷹峯の山中にあり、その流れは、北野天満宮の南あたりから天神川と呼ばれています。

紙屋川や天神川と呼ぶ人はいても、西堀川と呼ぶ人はほとんどいないのではないでしょうか。

北野天満宮の御土居跡を流れる紙屋川は、とても細い流れで、ちょっと大きな溝のように見えます。

でも、かつては再生紙の生産に使われていた重要な川だったことを知ると、紙屋川の見方が変わってきますね。

なお、北野天満宮の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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