承久3年(1221年)5月14日。
後鳥羽上皇が、鎌倉幕府を倒すために挙兵した承久の乱が起こりました。
上皇が、乱を起こす決意をしたのは、現在の京都市伏見区の鳥羽にある城南宮です。
荘園の地頭罷免問題
城南宮は、地下鉄竹田駅から南西に約15分歩いたあたりに建っています。
城南宮がある辺りは、平安時代後期に白河上皇が鳥羽離宮を造営した地で、白河上皇や鳥羽上皇の院政は、ここ鳥羽で行われていました。
後鳥羽上皇は、平家が安徳天皇とともに三種の神器を持って都落ちした後、三種の神器がないまま幼くして即位しています。
叡知傑出した人物との評判が高かった後鳥羽上皇は、文武に優れ、特に和歌の才能が秀でていたとされます。
後鳥羽上皇の時代には、すでに鎌倉幕府が成立しており、朝廷と武家の二元政治が行われていました。
白河上皇や鳥羽上皇の時代の院政とは、事情が異なっており、鎌倉幕府は後鳥羽上皇にとって厄介な存在でした。
そんな時、後鳥羽上皇が寵愛する白拍子出身の伊賀局(いがのつぼね)が領していた摂津の荘園から、地頭のせいで年貢が入らなくなります。
そこで、後鳥羽上皇は鎌倉幕府に地頭を罷免するよう申し出たのですが、時の執権北条義時が、これを受け入れると幕府体制が崩壊しかねないと考え拒否しました。
この時、後鳥羽上皇は、幕府がある限り、朝廷は土地を自由に管理できないと悟ります。
そして、それなら幕府を倒してしまおうと考えたのです。
流鏑馬と見せて挙兵の準備
倒幕を誓った後鳥羽上皇は、幕府に対抗するため、競馬や流鏑馬(やぶさめ)を口実に北面の武士や西面の武士、そして諸国から合わせて1,700人の兵を集めました。
当時、城南宮は城南寺の鎮守社で、城南寺明神御霊会(ごりょうえ)という祭礼が催されていました。
祭礼では、祈雨祈願のために馬に乗って矢で的を射る流鏑馬が行われおり、兵を集めるのに良い口実とされたのです。
集まった武士たちは、京都守護の伊賀光季(いがみつすえ)を討ち、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を発し倒幕に動き出しました。
一方の鎌倉幕府も、北条義時の姉で源頼朝の妻の政子が、頼朝の恩を忘れるなと演説をしたことで御家人たちが奮い立ち、幕府勢は19万騎も集まりました。
幕府勢は、義時の子の泰時に率いられ、後鳥羽上皇の決起から1ヶ月で京都を制圧しました。
後鳥羽上皇は、義時追討の院宣を取り消し、その責任を部下の公家たちに押し付けます。
しかし、そのような言い逃れは通用せず、結局、乱の首謀者である後鳥羽上皇は、隠岐に流罪となりました。
また、土御門上皇は土佐、順徳上皇は佐渡へ配流となります。
現在、毎年10月22日に京都で行われる時代祭では、後鳥羽上皇が城南宮で流鏑馬を催した場面を再現した城南流鏑馬列が登場します。
時代祭の観覧時には、城南流鏑馬列もしっかりと見ておきたいですね。
承久の乱の後、鎌倉幕府は、朝廷の監視のため六波羅探題を設置しています。
六波羅探題は、武士の力を拡大させた平家の邸宅があった六波羅に置かれたのですから、平家を都から追い落とした朝廷にとっては何とも皮肉なことです。
なお、城南宮の詳細については以下のページを参考にしてみてください。