京都市東山区の清水寺は、延暦17年(798年)に建立されました。
創建当時は北観音寺と呼ばれていた清水寺は、今昔物語に建立の伝説が収録されています。
今回の記事では、清水寺創建の伝説を紹介します。
賢心の夢告
北観音寺の創建からさかのぼること20年。
宝亀9年(778年)に奈良の子島寺の僧であった賢心上人の夢の中でお告げがありました。
そのお告げは、この地を去って北に行けというもの。
北に行けとは、新京に違いないと思った賢心上人は、淀川のほとりにやって来ると、一筋の金色の水の流れに気づきました。
しかし、その金色の流れは、他の人には見えていません。
自分だけに金色の水の流れが見えていることに気づいた賢心上人は、これは瑞相に違いないと思い、その源を目指すことに。
どんどん流れをさかのぼっていくと、やがて新京から遥か東の山の奥にたどり着きました。
ちなみにこのときの新京は、平安京ではなく、長岡京だと考えられます。
山の奥には、滝があり、賢心上人が、その下に降りてみると、なんともすがすがしい気分になりました。
そして、滝の上を見ると、庵があり、白髪の老人が座っているのに気づきます。
賢心上人は、その老人に名を尋ね、いったいどれくらいの間、ここにいるのかを聞きました。
すると老人は、自分の名は行叡(ぎょうえい)と言い、200年の間、賢心上人がここを訪れるのをずっと待っていたのだと答えました。
そして、これまでこの地で修業を積んできたが、今は東国に行って修業をしたいと言い、自分に代わって賢心上人にこの庵を守って欲しいと頼みます。
これに対して、賢心上人は、「何年でも、ここを守ります」と答えました。
帰ってこなかった行叡
行叡は、この庵をお堂に造り替え、観音さまを納めなければならないと言います。
林の中には、観音さまを納めるにふさわしい木々がたくさんあるので、もしも、自分が帰って来るのが遅れた場合は、代わりにお堂を造ってくれるよう言い残し、姿を消してしまいました。
賢心上人は、行叡に頼まれたように木の下で住み、彼の帰りを待ち続けました。
しかし、行叡は、3年過ぎても戻ってこなかったので、賢心上人は、意を決して探しに行くことにします。
すると、東の峰に行叡が履いていた履物が落ちていました。
賢心上人は、きっとここから転落して亡くなったに違いないと嘆き悲しみます。
悲しみに暮れている賢心上人の前に坂上田村麻呂がやってきました。
彼は、出産したばかりの妻のために鹿を食べさせようと山の中に入ってきたところ、不思議な色の水を見つけたので、それを飲んでみると、体が涼しくなり清々しい気分になりました。
そして、この水の源を突き止めようと山の中に入ってきたところ、賢心上人の読経の声が聞こえました。
坂上田村麻呂は、賢心上人の話に感動し、それを光仁天皇に伝えます。
すると、光仁天皇は、お堂の建立を許可したので、坂上田村麻呂は、賢心上人が彫った金色の十一面千手観音像をそのお堂に安置しました。
これが、北観音寺こと清水寺の始まりだと伝わっています。
険しい崖に建つお堂
以上が、今昔物語に収録されている清水寺の創建の伝説です。
賢心上人は、後に延鎮(えんちん)と名を改めており、こちらの名の方が有名ですね。
さて、清水寺の伽藍は、険しい崖の上に建っています。
こんな険しい崖にお堂を建てなくても良さそうなものですが、賢心上人が行叡と出会ったのが、この辺りだったのでしょう。
清水寺のお堂の建立にも伝説が残っています。
鹿狩りで山の中に入った坂上田村麻呂は、賢心上人に殺生を戒められ、その心を恥じ、彼に帰依しました。
そして、妻と相談し、寝殿を寄進することにしたのですが、この険しい崖にどうやってお堂を建てたら良いものか悩んでいたところ、たくさんの鹿がやって来て、一晩のうちに崖を平らにしてくれました。
現在の清水寺の懸造(かけづくり)の本堂などが建っているのが、鹿が平らにした崖の上なのだとか。
境内の入り口の仁王門の奥に鐘楼がありますが、その北側には、この時、死んでいた鹿の胎児を供養したと伝わる鹿間塚(しかまづか)があります。
ちなみに賢心上人の庵があったとされる場所には、現在、奥の院が建っています。
そして、奥の院の下には、音羽の滝が流れています。
賢心上人が見た金色の流れは、この音羽の滝だったんですね。
かつては、音羽の滝の水でビールが作られたこともあり、今も、多くの参拝者が、柄杓で滝の水を汲んでいる姿を見かけます。
清水寺の創建は平安遷都(794年)とほぼ同時期と古く、その時代にどうやって崖の上に伽藍を築いたのか不思議に思うところがあります。
清水寺創建の伝説は、その疑問から生まれたのかもしれませんね。
なお、清水寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。