京都市中京区の錦市場から、西に歩き、烏丸通を横切った先に昔ながらの建物の門があります。
その門の下にひっそりと石碑が立っています。
その石碑には、「此附近 木下順庵邸址」と刻まれていました。
木下順庵は松永尺五の門人
木下順庵邸跡の石碑は、地下鉄の四条駅、または、阪急電車の烏丸駅から北西に徒歩約3分の場所にあります。
この辺りは、部分的に江戸時代のような雰囲気が残っていますね。
江戸時代の武士の学問の中心は朱子学でした。
そして、江戸時代の朱子学の祖と言われるのが、相国寺の僧であった藤原惺窩(ふじわらせいか)です。
藤原惺窩は、徳川家康に招聘されましたが、これを断り、代わりに弟子の林羅山(はやしらざん)を江戸に向かわせました。
しかし、松永尺五(まつながせきご)ら、多くの門弟は京都に止まり、やがて、日本の儒学の主流派となる京学が形成されていきます。
その松永尺五の門人だったのが木下順庵(きのしたじゅんあん)です。
木下順庵は、東山に塾を開き、加賀前田家から招きを受けた後も、京都住まいのまま金沢と江戸を往復しました。
天和2年(1682年)には江戸幕府の儒官となり、5代将軍徳川綱吉の侍講をつとめ、武徳大成記などの幕府の編纂事業にたずさわります。
新井白石は木門十哲の一人
木下順庵はまた、教育者としても優れており、木門十哲と呼ばれる優れた人材を輩出しています。
室鳩巣(むろきゅうそう)、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)、祇園南海(ぎおんなんかい)などが木門十哲として有名ですが、その中で最も知られているのは新井白石です。
新井白石は、正徳の治と呼ばれる政治改革を行ったことで有名です。
新井白石は、6代将軍徳川家宣に仕えました。
家宣は、5代将軍綱吉が出した生類憐みの令をすぐに廃止し、白石もまた、綱吉時代に勘定奉行の荻原重秀が行った貨幣改鋳を否定し、元に戻しました。
荻原重秀は、貨幣に含まれる金や銀の純度を下げることで貨幣量を水増しし、幕府の財政を立て直そうとしました。
しかし、新井白石はこれを否定し、貨幣に含まれる金や銀の純度を元に戻して貨幣量を少なくしました。
今では、新井白石のようなことをするとデフレになると否定されますが、当時の新井白石は、これが正しいと考えていたんですね。
木下順庵邸の跡地を示す石碑は、大正5年(1916年)5月に京都市教育会が建立したものです。
木下順庵がいなければ、新井白石は幕府に登用されなかったかもしれません。
そう考えて石碑を見ると、この付近が江戸時代の歴史に大きな影響を与えたことに感慨深いものを感じます。