9月中旬。
京都市南区に建つ城興寺に参拝しました。
城興寺は、小さなお寺なので、あまり人に知られていません。
でも、洛陽三十三所観音霊場めぐりの第二十二番札所なので、御朱印をいただきに参拝したことがあるという方はいらっしゃるでしょう。
城興寺は、平安時代に施薬院があった場所とされているので、歴史的には重要な場所に建っていると言えます。
城興寺と以仁王の挙兵
城興寺は、近鉄電車の東寺駅から東に5分ほど歩いた辺りにあります。
地下鉄だと九条駅から西に徒歩約3分です。
城興寺の入り口は、狭い道の奥にあるので気づきにくいです。
その入り口から境内に入ります。
境内の北側に本堂が建っているので、まずはお参りをしましょう。
本尊として祀られているのは、千手観世音菩薩です。
城興寺が建つ地は、平安時代に太政大臣の藤原信長の邸宅があった場所で、後に知足院関白藤原忠実が伝領して、永久元年(1113年)に寺に改めたとされています。
創建当初は、現在よりも広い寺域を持っていたそうで、顕、密、禅、律の四宗兼学の道場でした。
後に天台宗となり、天台座主最雲法親王の没後にその弟子の以仁王(もちひとおう)が当寺を領するようになりました。
しかし、治承3年(1179年)に平家によって寺領を奪われ、これが以仁王の平家追討の挙兵の一因になったと考えられています。
現在の城興寺は、真言宗泉涌寺(せんにゅうじ)派の寺院になっています。
本堂の手前には、立派な供養塔が置かれていました。
薬院社
境内の南側には、薬院社が建っています。
薬院社の鳥居の前では、サルスベリの花がきれいに咲いています。
狛犬は茶色をしており、顔はなんとなく、にっこりと笑っているように見えます。
サルスベリと一緒に見る狛犬。
薬院社の説明書によると、当社は、元の名を施薬院稲荷といったそうです。
平安時代、当地の西北200メートルの東九条中殿田町に施薬院、北100メートルの上殿田町に施薬院御倉(みくら)がありました。
ちなみに施薬院と書いて「やくいん」と読むのが慣例となっています。
施薬院は、奈良時代に聖武天皇と光明皇后が創始した医療と施薬の役所です。
施薬院は、創設以来、藤原氏の実力者が手厚く保護し、平安時代初期には、左大臣の藤原冬嗣が上級貴族に与えられた食封(じきふ)と呼ばれる俸禄をそのまま施薬院のために投じたと、以前に紹介した書籍「京都 知られざる歴史探検」で述べられていました。
しかし、鎌倉時代になると、これらの施設は他所へ移転し、御倉跡の「薬院の森」には施薬院稲荷の祠だけが残り、以来、東九条の人々の鎮守として崇められてきました。
明治時代に入ると、廃仏毀釈運動に続いて辻堂廃止令が発布され、明治11年(1877年)に施薬院稲荷も廃止となりましたが、地元農民の熱意により城興寺の陀枳尼天堂(だきにてんどう)に合祀されました。
陀枳尼天は、ヒンズー教の性愛の神で、日本に伝来すると天部の1人とされ、女稲荷と崇められる仏様になります。
施薬院稲荷は、城興寺の陀枳尼天堂に合祀されたことで、陀枳尼天に婿入りした形となり、以降、2体のお稲荷さんは、夫婦円満を示現され、医療・施薬をとおして、健康で稔り豊かな明日を願いつつ見守っておられるそうです。
薬院社の東に植えられているイチョウの木の下には、摂社の次郎吉稲荷の祠もあります。
次郎吉稲荷は、「あなたの唯一の『願』だけ叶えて頂ける神さま」とのこと。
どうしても叶えたいお願いがある場合は、次郎吉稲荷にお参りすると良さそうですね。
なお、城興寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。