江戸時代中期の国学者である本居宣長(もとおりのりなが)は、約35年間、古事記を研究し古事記伝を著しました。
また、彼は、源氏物語を講義する中で、「もののあはれ」こそが日本固有の情緒を表現しており、日本文学の本質だと述べたことでも有名です。
本居宣長は、伊勢松坂の出身ですが、若い時には京都に出て勉学に励んでいました。
23歳の時に京都へ
本居宣長は、享保15年(1730年)に木綿仲買商の小津家の次男として生まれました。
彼は、8歳から勉学に励むようになりましたが、商売には関心を持っておらず、十代になると源氏物語も読み始めました。
その後、19歳の時に伊勢山田の今井田家の養子となります。
ところが、21歳で不縁となり、翌年に兄がなくなったことから小津家を相続しました。
しかし、もともと商売に向いていなかった宣長は、母の勧めで医者になるため、宝暦2年(1752年)の23歳の時に京都に遊学することにしました。
京都では、儒教を学ぶために堀景山の塾に入ります。
さらに堀元厚(ほりげんこう)に李朱医学(りしゅいがく)を学び、元厚の死後は武川幸順(たけかわこうじゅん)のもとで修業をして医師になりました。
また、宣長は、古医方にも興味を持ち、その大家である香川修庵(かがわしゅうあん)にも学びました。
宣長の儒教の師であった堀景山は、荻生徂徠(おぎゅうそらい)や契仲(けいちゅう)の学問にも関心を持っていたことから、宣長も日本古典を研究するようになり、国学にも興味を持つようになります。
そして、宝暦7年。
本居宣長は、京都での勉強を終え、故郷松坂に戻り古医方の医者として開業しました。
本居宣長先生修学之地
地下鉄四条駅、または阪急烏丸駅を出て、南西に3分ほど歩きます。
すると、綾小路通新町東入ルに若き日の本居宣長が勉学に励んだ場所であることを示す「本居宣長先生修学之地」と刻まれた石碑が立っています。
ここは、本居宣長の師の堀景山と武川幸順の塾があった場所とのこと。
古事記伝を著した本居宣長の史跡にしては地味ではありますが、この石碑を発見した時は感慨深いものがありましたよ。
本居宣長先生修学之地の石碑は、ビルの入り口にひっそりと立っているので、気づかず素通りする人も多いと思います。
そもそも、本居宣長を知らない人は、この石碑に何の関心も示さないでしょうけどね。
何気なく歩いていても史跡が見つかるのが、京都散策の楽しいところです。