慶長2年(1866年)9月12日。
新撰組と土佐藩士が三条大橋で乱闘する事件が起こりました。
事の発端となったのは、8月29日の夜に三条大橋に立てられた制札が墨汁で落書きされたことで、その後も何度も引き抜かれたりするいたずらが絶えませんでした。
町奉行は、犯人を召し取ろうとしましたが逃げられるばかりで、新撰組に犯人の捕縛を依頼することにしました。
制札の内容
三条大橋の制札にいたずらをしたのは、十津川郷士の中井庄五郎、深瀬繁麿らの過激志士たち。
彼らが制札にいたずらした理由は、その内容が長州藩を逆賊としていたからです。
長州藩は、元治元年(1864年)の蛤御門(はまぐりごもん)の変で京都御所に乱入し、会津藩や薩摩藩を中心とする幕府軍に追い返されます。
蛤御門の変では、多数の家屋が焼失し、京都の大部分が焼け野原になりました。
幕府は蛤御門の変の直後に三条大橋に長州兵の行状を書き記した制札を立てます。
以下は、木村幸比古さんの「新選組日記 永倉新八日記・島田魁日記を読む」から抜粋した制札の内容です。
一、此度長州人恐多くも自ら兵端を開き、犯禁闕不容易騒動相成候間、立去候者共安堵帰住可致候。将又妄に焼払候様、浮説を唱候者も有之哉に候得共、右様之儀には決して無之候間、銘々職業を励み、立騒ぎ申間敷事。
一、元来長州人名を勤王に託し、種々手段を設け人心を迷し候故、信用致候者も有之候得共、禁闕に発砲し逆罪明にして追討被仰付候。若信用致候者も前非を悔改心候者は御免可被成候間、可申出候。且潜伏落人など見当たり候者、早速に申出候はば御褒美可被下候。若隠他より顕はれ候はば、朝敵同罪たるべき事
この制札を読んだ長州贔屓の勤王の志士たちは、長州藩が朝敵と決めつけられたことを快く思いません。
そこで、幕府に不満を持つ勤王の志士たちが、夜な夜な制札にいたずらするようになりました。
幕府への挑戦
三条大橋の制札へのいたずらを幕府への挑戦と捉えた京都町奉行所は、重大事件に発展する前に新撰組に犯人の捕縛を依頼します。
そして、新撰組はこの依頼を受けて、原田左之助、新井忠雄など多くの隊士を三条大橋に待機させました。
三条大橋の東に5人、木屋町入口に5人、先斗町に5人、そして、制札の向かい側の町家に原田左之助、新井忠雄ら10人ほどが配置。
すると、夜10時頃に8人の男たちが詩を吟じながら三条大橋の近くに現れました。
その8人は、宮川助五郎、安藤健次、藤崎吉五郎、松島和助、沢田屯兵衛、岡山禎六、本川安太郎、中山謙太郎らの土佐藩士でした。
彼らが刀を抜いて制札を引き抜こうとしたところで、待機していた新撰組隊士たちが現れます。
そして、すぐに斬り合いとなりましたが、新撰組の方が圧倒的に人数が多かったので、土佐藩士たちは次々と斬られていきます。
重傷を負った宮川助五郎が新選組屯所に連行されたことで、犯行グループが土佐藩士たちだと明らかになりました。
事件が起こった三条大橋は、現在も鴨川に架かっています。
今も昔も往来が多い橋です。
この橋に長州藩の罪状を記した制札が立てられたのですから、多くの人が読んだに違いありません。
たかが制札へのいたずらですが、幕府はこの事件を重大事件の解決とし、後日、京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)から新撰組隊士1人につき3両が与えられました。