京都市中京区の新京極通に誠心院というお寺が建っています。
初代住職となったのは、平安時代の女流歌人である和泉式部です。
歌人が住職になったお寺は珍しいですね。
ところで和泉式部は、どうして誠心院の初代住職となったのでしょうか。
和泉式部の物語
誠心院は、阪急電車の河原町駅から北に8分程度歩いた辺りに建っています。
お店に挟まれて窮屈そうに立つ山門。
山門をくぐると右側に水かけ行者さんがいらっしゃるので、水をかけてお参りをしておきましょう。
境内の中央にどっしりと建つ本堂。
本堂には、木造阿弥陀如来像や和泉式部、藤原道長の像が安置されています。
それでは、本堂にお参りです。
和泉式部と誠心院との関係は、山門に架かっている絵を見ればわかります。
和泉式部は宮廷歌人として名をはせましたが、晩年にはこの世の無常を思い、来世に不安を感じていました。
そこで、女官2人を連れて播磨国書写山円教寺へと旅立ち、性空(しょうくう)上人に会いに行きます。
和泉式部たちは円教寺の門前に到着しましたが、寺の門は閉ざされたまま。
そこで、和泉式部は以下の歌を繰り返し詠んで開門をお願いします。
くらきよりくらきみちにぞ入りぬべき
はるかにてらせば山のはの月
和泉式部の歌に感じ入った性空上人は門を開け、彼女らと対面します。
女性でも西方浄土に往生する道はないものかと和泉式部に問われた性空上人は、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の八幡大菩薩は阿弥陀如来の化身だから、お祈りすれば良いでしょうと教えました。
石清水八幡宮に参拝し七日七夜のお籠もりをした和泉式部は、夢の中で八幡大菩薩のお告げを聞きました。
八幡大菩薩は、神の道に入って久しいので仏の道を忘れてしまったと言い、そして、京都の誓願寺の阿弥陀如来が一切衆生を極楽へと導いてくれるからお祈りするようにと教えます。
48日の間、誓願寺に参籠した和泉式部は、ある夜、夢の中で尼僧のお告げを聞きます。
南無阿弥陀仏と唱えれば女性でも極楽往生できることは間違いないと尼僧に教えられた和泉式部は、これを信じて誓願寺に参籠するときのほかは小御堂(こみどう)に籠り、日夜、南無阿弥陀仏と唱え続けました。
この時、和泉式部が籠った小御堂が現在の誠心院の本堂です。
また、和泉式部が日参した誓願寺は、誠心院の少し北に建っています。
和泉式部は出家して専意と名を改めました。
そして、長和3年(1014年)3月21日に紫雲が軒先にたなびいて芳香が薫る中、極楽往生を遂げたそうです。
一遍上人の物語
和泉式部の物語の隣には一遍上人の物語が描かれた絵も架かっています。
和泉式部の往生から約260年後の健治2年(1276年)3月、時宗の開祖である一遍上人が熊野本宮大社に参拝しました。
阿弥陀如来の化身である熊野本宮大社の祭神は、一遍上人に「六字名号一遍法 十界依正一遍体 万行離念一遍証 人中上々妙香花」という四句を説き、南無阿弥陀仏の六字の名号を唱えれば極楽浄土に往生できると説いて、衆生を導くようにとお告げになりました。
一遍上人はお告げに従い「南無阿弥陀仏六十万人決定(けつじょう)往生」のお札を配って遊行します。
そして、多くの人々が一遍上人からお札を受けました。
一遍上人が誓願寺でお札を配っていると、1人の女性が「60万人しか往生できないのですか」と訊ねてきました。
それに対して一遍上人は、「往生の人数ではなく熊野権現のお告げの頭文字です。誰でも南無阿弥陀仏と唱えれば必ず往生できます」と答えました。
すると女性は、ご本尊のお告げで誓願寺の額を南無阿弥陀仏に書き換えるようにと言います。
不思議に思った一遍上人が女性に名を訊ねると、彼女は和泉式部だと名乗り、誠心院の小御堂で往生したと語りました。
そして、石塔の近くまで来ると、忽然と姿を消しました。
一遍上人は和泉式部に言われたとおりに額を書き換えました。
すると周囲に紫雲がたなびき、和泉式部が歌舞の菩薩たちとともに現れました。
人々は歓喜し、一遍上人も驚いて合掌し礼拝したそうです。
現在、誠心院の境内には、和泉式部の墓と伝わる宝篋印塔があります。
今も和泉式部が、新京極を往来する旅行者や観光客など多くの人々を見守っているかもしれませんね。
なお、誠心院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。