京都市東山区に建つ清水寺は世界遺産に登録されている寺院とあって、毎年、京都で最も観光客が訪れます。
山の上に建てられた数々のお堂は見ごたえがあり、一度参拝すると、その迫力ある景色を忘れることはないでしょう。
それにしても、いったいどうやって東山の山頂にこれだけの伽藍を整えたのか、清水寺を訪れると毎回のように疑問がわいてきます。
観音さまの導きで音羽山を選ぶ
清水寺の創建は、宝亀9年(778年)までさかのぼると言われています。
奈良の子島寺の僧侶であった賢心(のちの延鎮)が、夢告により、金色の流れの源をたどっていくと山深くに音羽の滝を発見しました。
そこで賢心は、行叡と出会います。
行叡は、賢心に寺院建立を託し、忽然と姿を消しました。
後に賢心は、山科で行叡の履いていた片方の沓(くつ)を拾い、彼が観音さまの化身であることに気づきました。
そして、賢心は、行叡に教えられた霊木から十一面観音像を彫り、草庵に祀ることにします。
坂上田村麻呂との出会い
ある日、坂上田村麻呂が、妊娠中の妻の三善命婦(みよしのみょうぶ)のために鹿狩りに出かけた時、音羽山に迷い込み、そこで賢心と出会いました。
田村麻呂は、賢心の話を聞き、自分が殺生をしようとしていたことを恥じます。
そして、三善命婦と相談して仏堂を寄進することにしました。
しかし、音羽山のような険しい山に堂宇を建立するのは並大抵のことではありません。
田村麻呂が、いかにしてこの地に仏堂を建てれば良いのか悩んでいると、たくさんの鹿がやってきて、一晩のうちに険しい山頂を平らにしました。
そのおかげで田村麻呂は、清水寺の仏堂を建立できました。
ただ、このときに鹿の胎児が死んでしまいます。
不憫に思った田村麻呂は境内に鹿間塚を作って、死んだ鹿の胎児を供養したと言われています。
その後、坂上田村麻呂は、朝廷の命により蝦夷征伐に向かいました。
この時、清水寺の観音さまの脇士である毘沙門天と地蔵菩薩が現れて、田村麻呂の軍を勝利に導いたという伝説が残っています。
現在、清水寺の伽藍が山頂に整然と並んでいるのは、鹿たちのおかげなんですね。
鹿が手伝ってくれたというのは言い伝えですから、実際には、大勢の人たちが山頂を平らにするために働いたのでしょう。
1200年経った今も、このように伽藍が残っているのは、当時の人々が手を抜かずに仕事をしたおかげなのかもしれません。
清水の舞台から眺める壮大な景色。
この景色を眺めるときは、清水寺創建に関わった人々に感謝しないといけませんね。
なお、清水寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。