幕末から明治時代にかけて活躍した画家に谷口藹山(たにぐちあいざん)がいます。
藹山の生まれは越中国新川郡鉾ノ木村で、名を貞二といいました。
幼少の頃から絵が好きで、18歳で江戸に出て谷文晁のもとに入門し文齋と号しましたが、すぐに梁川星巌(やながわせいがん)のすすめで高久藹崖(たかくあいがん)の門下となって藹山と号しました。
山水画や花鳥画を得意とする
高久藹崖のもとでは25歳まで過ごし、26歳の時に大坂の篠崎小竹に儒学を学んだ後、九州に遊学し、大分の広瀬淡窓の成宜園で修業します。
さらに長崎では清国の画家陳逸舟(ちんいっしゅう)に四君子などの書法を伝授されました。
29歳になった藹山は、京都の貫名菘翁(ぬきな すうおう)に入門し、そのまま京都市上京区の護王神社付近の家に住み続けます。
藹山が得意としたのは山水画や花鳥画で、安政2年(1855年)の京都御所の修復時には望月玉泉らと障壁画を描きました。
また、この頃には西郷隆盛や大久保利通などの勤王の志士との交流もあったようです。
明治時代になると、西園寺公望が開校した立命館に富岡鉄斎や山中静逸とともに講師として招かれます。
そして、明治13年(1880年)にはのちの京都市立芸術大学の京都府画学校の南画担当教授となりました。
明治15年の第1回内国絵画共進会で受賞、明治29年には田能村直入(たのむらちょくにゅう)や富岡鉄斎らと日本南画協会を設立。
明治32年に84歳で亡くなりました。
藹山自叙碑
谷口藹山は、京都に住むようになってから、よく左京区の真如堂に散策に行っていたそうです。
現在、真如堂の境内には、「藹山自叙碑」が立っています。
三重塔の少し東側ですね。
建立されたのは明治33年です。
題字の篆書(てんしょ)は、旧藩主の前田公によるものと説明書に記載されていますから、富山藩最後の藩主の前田利同(まえだ としあつ)のものなのでしょうね。
碑文を読もうとしても、漢字だらけでわかりません。
長い期間、風雨にさらされてきた影響もあり、文字の判読も難しいです。
近くに説明書がなければ、いったい何の石碑なのかわかりませんね。
谷口藹山は、美術に興味がない人だと誰なのかわからないかもしれません。
でも、日本画に興味がある方なら、真如堂の藹山自叙碑を見に行きたくなるのではないでしょうか。
なお、真如堂の詳細については以下のページを参考にしてみてください。