江戸時代に京都には三大長者と称される家がありました。
高瀬川の開削を行ったことで知られる角倉了以(すみのくらりょうい)を輩出した角倉家、呉服で巨万の富を得た茶屋家、そして、金工界に絶大な勢力をふるった後藤家が、その三大長者です。
後藤家は、室町時代に足利義政に仕えた祐乗(ゆうじょう)が始祖で、江戸時代前期の顕乗(けんじょう)が中興の祖と言われています。
加賀後藤家の基礎を築く
後藤顕乗は、5代徳乗の次男として生まれました。
後に分家して理兵衛家の家祖となりましたが、兄の6代栄乗が亡くなり、栄乗の長男が年少だったことから、本家の7代目を継ぎました。
栄乗の長男光重が大きくなったため、本家は、後藤顕乗から光重が継ぐことになります。
そして、顕乗は加賀藩に招かれ、金沢で百五十石の扶持を受け、さらに徳川家からも二百五十石を与えられて、四百石の知行を得ます。
後藤顕乗が後藤家の中興の祖とされるのは、金沢で加賀後藤家の基礎をなしたからだとか。
市原に山荘を構えた?
後藤顕乗は、寛文3年(1663年)に78歳でこの世を去りました。
現在、叡山電車の市原駅に彼のものと伝わる墓石があります。
この墓石が後藤顕乗のものとされるのは、引退後に京都に戻り、市原に山荘を構えた可能性が高いからです。
市原駅近くにある山が、「ケンジャマ」と村人に呼ばれていたそうですが、これは、「顕乗山」が訛って村人に記憶されたのではないかと考えられています。
初めて市原駅で降りた時、駅にお墓があったので驚きました。
墓地を壊して駅を造ったのかとか、線路の工事で墓石を動かしたら崇りがあったとか、そのような理由で墓石が駅に置かれているのかと考えてしまいました。
でも、近くに設置されている説明書に後藤顕乗の墓石と伝えられている旨が記載されていたので、ちょっと安心。
しかし、このような場所に墓石が置かれていると、非業の死を遂げた人を村人が哀れに思って葬ったのではないかと考えてしまいます。
後藤顕乗ほどの豪商であれば、大きなお寺に立派なお墓を造っても良さそうなのですが。
ちなみに角倉了以のお墓は、豪商らしく嵯峨野の二尊院にあります。
茶屋四郎次郎のお墓も東山の大谷祖廟にあり、豪商らしさを感じます。
なぜ、後藤顕乗のお墓だけ私鉄の駅にあるのか不思議ですが、説明書によると、当時は墓を自宅の庭に作る習慣があった旨の記載があるので、おそらく後藤顕乗もその習慣にならったのでしょうね。
市原駅で降りる機会があれば、後藤顕乗のお墓にもお参りしてください。