河原町御池にある御土居跡を示す石碑

豊臣秀吉は、天下統一を成し遂げると京都を囲む土塁を構築しました。

この土塁は、御土居(おどい)と呼ばれており、現在でも北野天満宮にその遺跡が残っています。

京都は洛中と呼ばれていましたが、その範囲は豊臣秀吉が築いた御土居で仕切られた範囲を差します。

そして、当時の洛中の東の端が現在の河原町通でした。

今よりも西を流れていた鴨川

河原町通と御池通が交差する河原町御池の交差点の南西に石碑があります。

この石碑には、「洛中惣構 土塁(御土居)跡」と刻まれており、河原町通が御土居の東の端であったことを示しています。

洛中惣構 土塁(御土居)跡

洛中惣構 土塁(御土居)跡

ちなみにこの石碑には、明治時代に山本覚馬の邸宅が近くにあったこと、池田屋事件で吉田稔麿(よしだとしまろ)がこの付近で討ち死にしたことも記されています。

石碑の近くには説明書も設置されていたので読んでみることに。

河原町通の東には鴨川が流れていますが、昔は、河原町通までが鴨川だったとのこと。

御土居は、洛中と洛外を区切るだけでなく、鴨川堤防の役割も果たしていたそうです。

説明書には、徳川前期まで鴨川が河原町通を流れていたと記されています。

その時代は、現在の鴨川と河原町通の間にある木屋町通沿いを流れる高瀬川も開削された頃ですね。

城壁は、台形状をしていて、高さは5メートルほどありました。

これだけ高いと洛中から洛外に出るのに壁を上ることもできません。

きっと、当時の人々は、洛中と洛外を隔てる御土居ができたことで不便な思いをしたことでしょう。

もしも、今も御土居が残っていたら交通渋滞は必至です。

ただでさえ、京都は車道が混みますから、自動車で京都市内に乗り入れることは不可能に近いでしょうね。

御土居の高さは5メートルと述べましたが、基底部は20メートルもあったそうです。

当時の建造物としては、かなり頑丈に造られていたことがわかります。

しかし、豊臣家が滅び、徳川の時代になると御土居は取り壊されます。

徳川将軍も、きっと御土居は邪魔だと感じていたのでしょう。

現在の京都の町並みは、平安時代から続くものと思っている方もいらっしゃるでしょうが、そうではありません。

現在の区画は、豊臣秀吉の京都改造が基礎となっていますし、町名もそれ以降に付いたものがたくさんあります。

古都と言われている京都ですが、実は、そんなに古い町ではないんですよね。

とは言っても、京都を散策していると、安土桃山時代以前から同じ場所に残っているお寺や神社をよく見かけるので、それ以前の京都の雰囲気を感じることができますよ。

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