文久2年(1862年)。
京都では、不逞浪士たちが天誅騒ぎを起こし騒然としていました。
これを幕府が放置するわけもなく、新たに京都守護職という役職を設けて、京都の治安維持を図ります。
京都守護職に就任したのは、会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)でした。
松平容保は、京都市左京区の金戒光明寺に本陣を置き、上京区の京都府庁がある地を守護職屋敷としました。
この2ヶ所が京都市の会津藩ゆかりの地として有名ですが、他にも京都御苑の東に建つ清浄華院(しょうじょうけいん)も松平容保が宿所として利用したことがあります。
将軍上洛で清浄華院に寄宿
文久3年8月18日に長州藩を京都政界から追い落とすクーデターが起こりました。
クーデターは、薩摩藩と会津藩が協力して実行されたもので、長州藩士たちは7人の公卿とともに京都を去ります。
このクーデターで松平容保は、孝明天皇に信用され、その後も御所近くに住み警備にあたるように求められます。
そこで、御所内の施薬院邸に入ることになりました。
ところが、近々14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)が上洛することが決まったため、家康以来将軍が使用していた施薬院から会津藩士たちは出ることになります。
そして、次の寄宿先としたのが、御所の東に位置する清浄華院だったのです。
松平容保が清浄華院に入ったのは文久3年12月のことで、翌元治元年5月まで塔頭(たっちゅう)の松林院に滞在しました。
その後、容保は本陣の金戒光明寺に戻りましたが、直後に池田屋事件が起こったため、すぐに自らも御所警備にあたるため清浄華院洛中に舞い戻ります。
結局、会津藩士たちは慶応3年(1867年)正月まで清浄華院に寄宿することになります。
現在、清浄華院の境内の松林院が建っていた場所には、「松林院旧跡」と刻まれた石柱が建っています。
その側面には、「会津藩主 京都守護職 松平容保公寄宿の地」と刻まれています。
清浄華院は会津藩の他にも薩摩藩、徳島藩、熊本藩の宿所としても使用されたことがあります。
また、境内には、猿ヶ辻の変で薩摩藩士の田中新兵衛に暗殺された姉小路公知(あねがこうじきんとも)のお墓もあります。
幕末の会津藩と清浄華院との関係については、中外日報の以下の記事に詳しく記載されているのでご覧になってください。
なお、清浄華院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。
2017年2月5日追記
twitterで、池田屋事件後、松平容保は清浄華院ではなく洛中に戻ったとの指摘をいただいたので訂正しました。