京都には、多くの天皇陵があります。
その中でも、伏見区の鳥羽にある天皇陵ほど歴史的に興味がわく天皇陵はないでしょう。
地下鉄竹田駅の南東にある白河天皇成菩提院陵(しらかわてんのうじょうぼだいいんのみささぎ)、鳥羽天皇安楽壽院陵(とばてんのうあんらくじゅいんのみささぎ)、近衛天皇安楽壽院南陵(このえてんのうあんらくじゅいんのみなみのみささぎ)は、平安時代後期の院政時代の天皇が埋葬されています。
まさに院政が行われた鳥羽の地にふさわしい天皇陵と言えます。
白河天皇成菩提院陵
白河天皇は、応徳3年(1086年)に退位後の御所とするために献上された藤原季綱の邸宅を修造します。
これが鳥羽離宮の始まりです。
当時の鳥羽の繁栄ぶりは平安京をしのぐほどで、まるで鳥羽に都が遷ったかのような活気がありました。
そのため、当時の人々は、「都遷りの如し」と言ったとか。
白河天皇は、退位した後も上皇となって実権を握り、鳥羽で院政を行いました。
しかし、時の権力者である白河天皇は、その頃、どうすることもできないことが3つあると述べています。
鴨川の水、双六のサイコロ、山法師がそれで、天下三不如意と言われていますね。
下の写真に写っているのが、白河天皇成菩提院陵です。
よく見る天皇陵と同じような姿かたちをしています。
写真だけだと、どの天皇の陵なのか判別しがたいのも、天皇陵の特徴のひとつと言えるでしょう。
鳥羽天皇安楽壽院陵
白河天皇成菩提院陵の東に安楽壽院の境内があります。
その境内の少し西にあるのが、鳥羽天皇安楽壽院陵です。
鳥羽天皇は、白河法皇から鳥羽離宮を譲受け、退位後は上皇となって院政を行いました。
鳥羽天皇は、鳥羽離宮の東殿の中に自らの墓所を作ることを目的に安楽壽院を創建します。
そして、寺院内に本御塔という三重塔を建立しました。
これが、後に鳥羽天皇の墓所となります。
ところが、この本御塔は何度も火災に遭い、幕末に宝形造の現在の建物に建て替えられました。
また、明治となって天皇陵を宮内庁が管轄するようになって、安楽壽院の境内から現在地に移築されています。
近衛天皇安楽壽院南陵
安楽壽院の南にあるのが、近衛天皇安楽壽院南陵です。
敷地内には立派な多宝塔が建っています。
近衛天皇も平安時代後期の天皇でした。
ただ、その生涯は短く十代でこの世を去ります。
近衛天皇の早すぎる死が保元の乱の遠因になり、やがて、天皇家を二分する争いとなって、そこから源平合戦へと発展していきます。
白河天皇と鳥羽天皇は不仲で、両者のいがみ合いが、後に天皇家の力を衰退させて政権を武家に渡すことになります。
遷都が行われたかの如く繁栄した鳥羽。
でも、その繁栄は天皇家の衰退への第一歩でした。
鳥羽にある3つの天皇陵に訪れると、身内での争いは誰も得をしないということを気付かせてくれます。