鎌倉時代や室町時代に臨済宗のお寺は格付けがされていました。
五山十刹(ござんじっさつ)というのがそれです。
このような格付けは、南宋の官寺制度を範にしたもので、鎌倉幕府の執権であった北条貞時から始まっています。
鎌倉の浄智寺を五山に列したのが始まりで、その後、京都五山が指定され、室町時代になると、五山の下に十刹、その下に諸山が作られました。
京都五山は、南禅寺を別格として、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺と続きます。
大きな禅寺ばかりですね。
でも、よく見ると、五山に入っていても良さそうなお寺の名が見当たりません。
大徳寺が忘れられていませんか。
鎌倉時代は1位だった大徳寺
大徳寺は、京都市北区に建つ大きな禅寺です。
その大徳寺が京都五山に入っていないのは不思議です。
鎌倉時代の京都五山では、大徳寺は1位でした。
それが室町時代の五山十刹の制では、大徳寺は14位にまで順位を下げています。
なぜ、このようなことになってしまったのでしょうか。
そこには、今も昔も変わらない政治的な理由があったのです。
大徳寺は、鎌倉時代に宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が創建した臨済宗のお寺です。
宗峰妙超は、花園天皇や後醍醐天皇の帰依を受け、京都五山の第一に格付けされました。
ところが、鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇と足利尊氏が争う南北朝時代が到来すると、大徳寺の立場が変化してきます。
足利尊氏は、室町幕府を開き、敵であった後醍醐天皇の菩提を弔うために天龍寺を創建しました。
尊氏は、臨済宗の夢窓疎石(むそうそせき)に帰依しており、彼の提案により天龍寺を建てたんですね。
自ら五山十刹から外れることを決断
時は経ち、室町幕府3代将軍の足利義満の時代。
義満は、相国寺を創建し、五山十刹の制度を作りました。
この時、義満は自分が創建した相国寺を五山の2位に格付けします。すると、五山が六山になってしまうので、南禅寺を別格として五山の上に置きました。
そして、鎌倉時代には1位だった大徳寺は、十刹の9番目、全体でみると14番目にまで順位を下げられました。
なぜ、大徳寺は、大幅に順位を下げたのでしょうか。
それは、臨済宗内の派閥争いと関係があります。
大徳寺を創建した宗峰妙超の弟子たちは、権力に媚びない姿勢を貫徹していました。
これに対して、天龍寺の創建に尽力した夢窓疎石の一派は、足利義満が五山を統率するために作った僧録司(そうろくし)という役職につきます。
政治と深く結びついた夢窓派が、宗峰派よりも優位になるのは当然のこと。
だから、天龍寺が五山の第1位に列せられ、大徳寺は大幅に順位を下げられたのです。
さらに大徳寺は、この後、自らの意思で五山十刹からも外れ、林下(りんか)という禅寺になります。
なぜ、そのような行動をとったかについては、高野澄さんの著書「京都の謎 伝説編」で理由が紹介されていますので、以下に引用します。
幕府や将軍との関係をどうするとか、寺の維持をどうするとか、五山十刹のランキングを争って苦労するとか、そんなことは禅にとっては何の意味もない。「自分の心の本当の姿に目覚めよう」と努力する人がいれば、そこで禅がはじまる。(中略)
だが、じっさいの禅の歴史はどうだったかというと、「自分の心の本当の姿に目覚める」ことより、禅寺という環境のほうに重点が置かれてきた。(中略)
そんなことは枝葉末節にすぎない。
大徳寺は、禅本来の姿に戻るために五山十刹から外れることを良しと考えたんですね。
でも、幕府がそれを了承するかどうかわかりません。
そこで、大徳寺は、もともと自分たちは、他の禅寺とは性格が違うから、五山十刹に入れてもらう資格はなかったのだと幕府に言います。
すると、幕府もあっさりと大徳寺の言い分を聞き入れ、五山十刹から大徳寺を外すことにしました。
広い境内や立派な建物がいくつもある大徳寺が、五山十刹の順位が低く、後に格付けから外れたのには、こういった理由があったんですね。
なお、大徳寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。