京都市東山区と中京区に挟まれるように鴨川が北から南に流れています。
当然のことながら、川を渡ろうと思うと橋が必要になります。
東山区から中京区に行こうとする場合、三条大橋か、その1本北に架かる御池大橋のどちらかを選びますが、歩行者に人気があるのは三条大橋ですね。
近くにたくさんのお店が並んでいることが理由でしょう。
でも、三条大橋が架かる三条河原は、少しばかり気味の悪いところなので、できることなら近づきたくないですね。
数々の処刑の場となった三条河原
三条大橋周辺に近寄りたくない理由は、そこが、昔から処刑場として使われていたからです。
罪人が、時の権力者に処刑されるとき、その執行場所に選ばれたのが、鴨川沿いの河原。
三条河原や六条河原では、よく人が斬られたんですよね。
豊臣秀吉は、三条河原で、甥の豊臣秀次の親族を処刑しています。
豊臣秀次は、子のなかった秀吉の後を継ぐことになっていたのですが、それが決まった後に秀頼が誕生したため、秀吉は秀次を疎ましくなり、高野山に追放。
そして、切腹させました。
さらに秀吉は、何の罪もない秀次の親族を三条河原に連れ出し、次々と首をはねていきます。
中には、幼い子供たちも混ざっていました。
他に秀吉が三条河原で行った処刑には、石川五右衛門の釜茹でもあります。
首が晒されることも
三条河原で処刑されなくても、別の場所で処刑された人の首が晒されることがありました。
新撰組局長の近藤勇(こんどういさみ)は板橋で斬首された後、三条河原でその首を晒されています。
また、幕末には、よく勤王の志士たちによる天誅事件が京都の街中で起こり、被害者の首が、彼らによって三条河原に晒されることもありました。
中には、井伊直弼のために働いた村山たかのように生き晒しにされることもありましたし、変わったところでは、等持院に安置されている足利将軍の木造の首が晒されることもありました。
このように歴史に名を残している人物だけでも、かなりの数が三条河原で処刑されたり、首を晒されたりしていたのですから、名もない罪人まで入れると、とんでもない数に上るのではないでしょうか。
今では、カップルが等間隔に座って鴨川を眺めている光景を、三条河原で見ることがあります。
むしろ、カップルがまったくいないことの方が珍しいのではないでしょうか。
でも、いかにも、雨が降り出しそうな天気の時には、カップルの姿は見当たりませんね。
どんよりとした雨雲に覆われた三条河原からは、ここで処刑されたり首を晒された人々の恨みの声が聞こえてきそうで、ちょっと怖くなります。
普段、カップルが座っているその場所でも、実は、処刑が行われていたかもしれません。
処刑場だったことを知らなければ、三条大橋を何とも思わず渡れるのでしょうが、それを知ってしまった今では、少しばかり渡るのに躊躇してしまいますね。