2014年の祇園祭は、49年ぶりに後祭が復活したこと、その後祭の山鉾巡行で150年ぶりに大船鉾(おおふねほこ)が巡行したことが話題となりました。
ところで、なぜ、大船鉾が150年もの間、山鉾巡行に参加しなかったのでしょうか。
それは、150年前に京都で起こった大きな戦争が原因なんですね。
蛤御門の変
2014年から150年前に京都で起こった戦争とは、蛤御門(はまぐりごもん)の変です。
この戦争では、京都市内の多くの家屋が焼失し、家を無くした人々は、鴨川べりで野宿をしていたといいます。
今でも京都で、先の戦争と言えば、第2次世界大戦ではなく、蛤御門の変を指すと言われているのは、この戦争が京都人の生活や文化に与えた影響が大きかったからなのでしょうね。
蛤御門の変のきっかけとなったのは、同じ年の6月に起こった池田屋事件です。
池田屋事件は、新撰組が長州系の浪士たちを一網打尽にした事件です。
この事件で、新撰組の名は広く知られることになります。
また、池田屋で命を落とした志士の中には、宮部鼎蔵(みやべていぞう)や吉田稔麿(よしだとしまろ)といった将来を嘱望されていた人物もいました。
そのため、池田屋事件は、明治維新を1年遅らせたと言われています。
多くの有能な人材を1日ににして失った長州藩は、その報復のため、1ヶ月後に来島又兵衛や国司信濃(くにししなの)たちが、藩兵を率いて京都に乱入します。
そして、京都御所を守る会津藩や薩摩藩と激突しました。
この戦いの最中に家屋に火がつき、その火があれよあれよと、京都の町を飲み込んでいきます。
この時の火災で、大船鉾は、木組みや車輪を焼失し、以降、祇園祭の山鉾巡行に参加できなくなりました。
長かった150年
火災に遭った大船鉾でしたが、幸いにもご神体人形や舳先を飾る大金幣、大舵、水引、前懸、後懸などは焼失を免れます。
木組や車輪の焼失で済んだのなら、すぐに復興できたのではないかと思いますが、そう簡単なものではありません。
大船鉾本体の再建のために見積もられた費用は、なんと1億2千万円。
新築一軒家を購入するよりも高額です。
これだけの資金を四条町大船鉾保存会だけで用意するのが難しいということは、容易に想像できます。
そこで、寄付を募り、多くの方の支援によって、2014年の祇園祭で、その雄姿が巡行する姿を見れるようになったのです。
政治の遅れは、社会的に大きな影響を与えるので、その復興に多大な費用が掛かったとしても、比較的短期間で修正されます。
でも、一度破壊された文化は、直接、人々の暮らしに影響を与えないためか、なかなか復興されません。
今でも、多くの文化が廃れていき、日本から消えていってます。
大船鉾のように時間がかかっても復興されるのであれば良い方で、そのまま人々の記憶から消えてしまう文化というものも多いことでしょう。
なお、大船鉾の復興事業については、大船鉾保存会ブログで、その経過が紹介されていますので、ご覧になってください。