江戸時代前期の芸術家の本阿弥光悦ゆかりのお寺が、京都市北区の鷹峯(たかがみね)にあります。
そのお寺は光悦寺です。
本阿弥光悦は、近衛信尹(このえのぶただ)、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)とともに寛永の三筆と称されるほど書がうまかったということですが、他にも陶芸や蒔絵にも才能を発揮したことで知られています。
そういった芸術の才能が育まれたのは、やはり、鷹峯といった景観の美しい地で生まれ育ったからなのかなと思ってしまいますが、実は、彼が鷹峯に移ったのは、58歳の時で、若いころは、現在の京都市上京区に住んでいました。
京都の中心部で仕事をしていた
京都市上京区というと、京都御所があります。
そこから西に5分ほど歩けば、白峯神宮があり、道路を挟んだ東隣のマンションに本阿弥光悦京屋敷跡の石碑が立っています。
本阿弥光悦は、その前半生を京都の中心部で過ごしたんですね。
説明書を読むと、この地は、足利時代初期より刀剣の研ぎ、拭い、目利きのいわゆる三事をもって世に重きをなした本阿弥家代々の屋敷跡で、本阿弥辻子の名を今に残しているとのこと。
本阿弥光悦が生まれたのもこの地で、永禄元年(1558年)のことでした。
光悦も、本阿弥家の家業を継いで刀剣の研ぎ、拭い、目利きをしていました。
しかも、その腕前は、達人の名をほしいままにしていたそうです。
なので、本阿弥光悦は、三事の世界でも、相当有名だったんですね。
でも、彼の才能は、芸術面で特に秀でており、特に書道や茶道の世界でその才能を発揮し、天下の数寄者の敬仰をあつめたそうです。
そのまま京都の中心部で仕事をしていれば稼業もさらに発展したかもしれませんが、光悦は、京都に住み飽きたからどこか田舎に住みたいと思っていました。
そのことを徳川家康が京都所司代の板倉勝重を通して知り、元和元年(1615年)に本阿弥光悦に鷹峯の地を与えました。
家康が鷹峯を選んだのは、近江や丹波では京都への往来に不便だからということです。
鷹峯であれば、京都の中心からそれほど離れていないので、仕事に差し障りはなかったことでしょう。
晩年の本阿弥光悦は、鷹峯で風流の生を送り、寛永14年(1637年)に80歳でこの世を去っています。
寛永の三筆と称されたこと、鷹峯に広大な土地を持ったことから、晩年の本阿弥光悦ばかりに焦点が集まることが多いですが、実は、彼の才能を育てたのは、58歳までの前半生を過ごした京屋敷だったのかもしれません。
すでに芸術的才能を開花させていたからこそ、徳川家康は、本阿弥光悦に鷹峯を与えたのでしょう。