延元3年(1338年)5月の北畠顕家の戦死と7月の新田義貞の戦死で、南朝は大きな打撃を受けました。
すでに楠木正成も名和長年もこの世にはいないので、南朝の主だった武将はほとんどいなくなりました。
そのような中、延元4年8月16日に後醍醐天皇もこの世を去りました。
喪に服した足利尊氏
後醍醐天皇は、延喜天暦の頃の天皇を中心とした政治体制を再び築くために鎌倉幕府を倒し、足利尊氏とも戦ってきました。
しかし、その志も果たすことができず、無念の崩御となったのです。
魂魄はつねに
北闕(ほっけつ)の天を望まん
もし命に背き
義を軽くせば
君も継体の君に非ず
臣も忠烈の臣に非ず
太平記では、後醍醐天皇が、最期にこう言い残し、左手に法華経の5巻を持ち、右手に御剣(ぎょけん)を抱いて崩御したとされています。
京都の足利尊氏が後醍醐天皇の崩御を知ったのは、2日後の8月18日でした。
そして、喪に服し、7日間、幕府の仕事を停止しました。
足利尊氏と後醍醐天皇は敵同士。
もともと尊氏は、後醍醐天皇を尊敬していましたが、源氏が幕府を再興するという大望を抱いていたため、政治的に対立することになっただけで、後醍醐天皇を憎んではいませんでした。
後醍醐天皇の菩提を弔うために暦応資聖禅寺の創建を計画
足利尊氏は、後醍醐天皇の菩提を弔うために夢想疎石を開山として、一寺の建立を志します。
寺名は、北朝の年号の暦応からとり、暦応資聖禅寺としました。
場所は、亀山天皇の離宮があった嵯峨野に決まります。この地は、後醍醐天皇が少年期を過ごした場所でもあります。
造営奉行となったのは、高師直(こうのもろなお)と細川和氏。
暦応資聖禅寺の造営にあたっては、延暦寺から強い反発がありました。
そもそも寺名に元号を使うのは、延暦寺のような勅願寺にだけ許されるものであり、一禅寺に認めるものではないというのです。
その反発もあったことから、暦応資聖禅寺は天龍寺に改められました。
寺名は、足利尊氏の弟の直義が、金龍と銀龍の夢を見たことに由来します。
天龍寺船で造営費用を捻出
暦応4年7月13日。
亀山離宮跡の敷地で地曳式(じびきしき)が行われました。
天龍寺の造営には、多額の資金が必要となります。
そこで、足利尊氏は、夢想疎石の提案により、元との交易を行い、そこから上がった利益を天龍寺の造営費用に充てることにしました。
この元との交易の際に使った船は天龍寺船と呼ばれました。
そして、6年の歳月を経て貞和元年(1345年)に天龍寺は落成しました。
また、同年8月16日には、開堂大供養が行われました。この日は、後醍醐天皇の命日でもあったため、七周忌法要も同時に行われています。
天龍寺造営で元との交易が行われたことで、都の景気は良くなり、人々はそれを天龍寺景気と言いました。
しかし、南北朝の争乱はまだ終わっておらず、むしろ、泥沼化する一方だったので、当時の人々は、好景気だからと言って、安心して眠ることはできなかったでしょうね。
天龍寺の境内には、後醍醐天皇の御尊像を祀っている後醍醐天皇聖廟多寶殿が建っています。
建物の障子は少し開いていて、光が当たった後醍醐天皇の御尊像にお参りできるようになっています。
なお、天龍寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。