建武2年(1334年)7月に足利直義によって後醍醐天皇の皇子の護良親王(もりながしんのう)が暗殺されました。
暗殺した時、誰もいないと思われていた室内ですが、実は、この暗殺の現場を見ていた女性がいたのです。
それは、護良親王に仕えていた南の方です。南の方は、それを知らせるために都に戻りました。
南の方の話を聞いた後醍醐天皇は、足利尊氏と直義の討伐を考えます。
2人は、鎌倉にいたので、その討伐のために誰かを派遣しなければなりません。
その候補となったのが、新田義貞です。
義貞弾劾状と尊氏の八逆の罪
11月になり、足利尊氏から都に書状が届きます。
そこには、新田義貞が、根も葉もない噂を流したため自分が悪者と思われているけども、本当に悪いことをしているのは新田義貞だという内容が書かれていました。
もともと足利と新田とは同じ源氏ではあったものの仲が悪く、この確執がさらに新田義貞のせいで深まったのだというのです。
これに対して、新田義貞も足利尊氏の八逆の罪を並べます。
尊氏は、倒幕の際に諸国の武士に勝手に恩賞を与えたり、護良親王を朝廷から排除したり、挙句の果てに暗殺するなど、朝廷に刃向う悪者だと訴えたのです。
そして、朝廷は、11月18日に新田義貞に足利尊氏と直義の討伐を命じました。
大友貞載の裏切り
鎌倉に出陣した新田軍は、最初は優勢に戦いを進めていました。
戦いの初めは、足利尊氏が出家し、自分は朝廷に刃向う意思はないと訴えていたため、弟の直義だけが新田軍と戦っていました。
新田軍の攻撃を支えるのが難しくなった直義は、尊氏に出陣の催促をします。
このままでは、直義が負けてしまうと思った尊氏は、遂に出陣を決定。これにより、足利軍の士気は一気に上がり、新田軍を押し返します。
さらに新田軍の背後からも攻撃を仕掛けてくる軍がありました。
それは、味方のはずの大友貞載(おおともさだとし)と佐々木道誉(ささきどうよ)です。
挟み撃ちにあった新田軍は敗走。
それを追うように足利軍も京都に向かって軍を進めていきます。
足利尊氏の命を狙う結城親光
足利軍が京都を包囲すると、後醍醐天皇は東坂本へと移動を開始します。
すでに足利軍の一部が京都に乱入し、内裏も炎上していたため、避難する必要があったからです。
後醍醐天皇側も足利軍の攻撃に対して、新田義貞、楠木正成、名和長年らが懸命に戦っていたものの、京都を守るのは不利と判断し、一旦、兵を都の外に撤退させます。
足利軍が京都に入ったことを知り、急いで後醍醐天皇のもとに駆けつけたのが、結城親光でした。
結城親光は、東坂本近くで、後醍醐天皇の行列を見つけ、今から自分は、裏切り者の大友貞載と足利尊氏と刺し違えてくると告げ、再び戦場へと戻っていきました。
建武3年1月11日。
結城親光は、東寺の南大門に陣を敷いている大友貞載のもとを訪れ、足利尊氏に降伏すると告げます。
すると、大友貞載は、すぐに近くの桶口東洞院(おけぐちひがしのとういん)の足利尊氏の本陣にそのことを伝えに行ました。
事の次第を聞いた尊氏は、結城親光は頑固者なので後醍醐天皇を裏切るはずはない、きっと、それは偽りの降伏だと大友貞載に言います。
そして、尊氏が降伏を許したと結城親光に伝えて、本陣まで案内する途中で討ち取るようにと命じました。
尊氏の命を受けた大友貞載は、東寺に戻り、結城親光に尊氏の許へ案内すると伝え、2人は、従者を連れて尊氏の本陣へと向かいました。
途中、小川に差し掛かると、大友貞載が、規則なのでここで刀を預からなければならないと結城親光に伝えます。
結城親光も、それはもっともなことだと言い、刀を大友貞載に渡そうと差し出しました。
それを大友貞載が受取ろうとすると、結城親光がいきなり抜刀し、貞載に斬りかかります。
親光の攻撃を受けた貞載は、そのまま小川に落馬。それを見た貞載の家来たちは、一斉に親光に殺到します。
そして、結城親光も討ち取られました。
この後、楠木正成の活躍で京都から足利尊氏を追い出すことに成功した後醍醐天皇は、再び京都に戻ることができました。