ある日、京都市伏見区の日野の辺りを歩いていると、道路わきに古びた石柱が立っているのを見つけました。
その石柱には、「従三位平重衡卿墓」と刻まれていました。
こんな道の脇にお墓があるとは驚きです。
しかも、平家の公達のお墓が、こんなに無造作にあるなんて。
処刑される前に妻との再開を果たした地
その平重衡(たいらのしげひら)の墓を示す石柱がこれです。
歴史上の人物のお墓ですから、何か柵のようなものがあっても良いのですが、そのようなものは一切なく、マンションの入口付近に置かれています。
でも、どうやら、この石柱は、近くに平重衡のお墓があることを示しているのだということが、しばらくたってわかりました。
マンションの近くには、公園のような土地があり、そちらに向かって歩いて行くと、こちらにも平重衡の墓がありました。
どうやらこれが本物の平重衡のお墓のようです。
平重衡は、平清盛の五男です。
重衡と言えば、南都を焼き討ちした時の平家の大将として知られています。
平家に不満を抱いた南都の僧たちが、暴動を起こし始めたので、平清盛は、重衡に暴動を鎮めてくるように命じます。
清盛の命を受けた重衡は南都に攻め込み、僧たちの暴動を抑え込もうとしました。
その時、平家方は民家に火を放ち、折からの強風で、あれよあれよと興福寺や東大寺にも火がつき、大仏までもが焼失してしまいました。
当然、南都の僧たちは、これ以降、平重衡に恨みを持ちます。
父清盛の死後、平家の勢いは失われていき、都落ちの後、一ノ谷の戦いで源氏に惨敗します。
この時、多くの平家の武者が討ち死にし、重衡は源氏方に捕えられ、鎌倉の源頼朝のもとに護送されました。
その後、南都の僧たちが、重衡が鎌倉にかくまわれていることを知り、頼朝に身柄を渡すように要求したことで、重衡は南都に引き渡されました。
鎌倉から南都に向かう途中、伏見区の日野の辺りに立ち寄った重衡は、妻の大納言佐局(だいなごんのすけのつぼね)と再会し、最後の別れを告げたと言われています。
重衡は、木津河原で処刑され、その遺骸は大納言佐局が引き取り、火葬後、日野に埋葬されたと伝えられています。
現在、重衡を処刑した時に首を洗ったとされる池が、木津川市に残っています。
池のほとりには柿の木があるのですが、重衡の首を洗ってから柿の実が成らなくなったと伝わっています。
私は、実際にその池を見に行ったことがあります。
池のほとりには確かに柿の木があり、何気なく上に目をやると、たくさんの実がなっていたので驚きました。
詳しくは以下の記事をご覧になってください。
日野に埋葬された重衡の魂は、大納言佐局によって供養されたことでしょう。