近鉄電車の桃山御陵前駅から南に5分ほど歩いた辺りに桃陵団地(とうりょうだんち)があります。
この桃陵団地は、江戸時代に伏見奉行所があった場所です。
慶応4年(1868年)1月。
伏見奉行所にたてこもった会津藩と新撰組は、その北にある御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)に陣取っていた薩摩藩と激しい戦闘を繰り広げました。
銃弾が飛び交う戦場となった市街地
下の写真に写っているのが、桃陵団地です。
団地というと、コンクリートでできた建物を想像しますが、桃陵団地は、木目調で和風の雰囲気を出しています。
なお、団地内の全ての建物がこういった装飾ではありません。
団地には、石垣が残っているので、今でも伏見奉行所の面影があります。
桃陵団地と御香宮神社の間の道路は、鳥羽伏見の戦いの時に幕府軍と新政府軍の激戦地となりました。
当時から残っている魚三楼というお店には、今もその時の弾痕があります。
新式の洋式銃と大砲を持つ薩摩藩に対して、会津藩と新撰組は旧式の鉄砲しか持っていません。
当然のことながら、火力では薩摩藩が優勢だったので、激しい銃撃戦で伏見奉行所は炎上しました。
明治以降は陸軍の土地となる
もともと伏見奉行所があった場所は、豊臣秀吉が築いた伏見城の城下町でした。
豊臣家が滅亡した後、徳川3代将軍の家光の時代に伏見城は取り壊され、寛永元年(1624年)に富田信濃守の屋敷があった場所に伏見奉行所は建設されました。
昔から伏見は鳥羽と並ぶ貴族たちの別荘地でした。
そこに豊臣秀吉が伏見城を築き、城下町を造って、伏見港を整備したことから都市としてさらに発展していきました。
伏見港は、江戸時代には、京都の物流を支える重要な港だったことから、この辺りに奉行所を置く必要性があったのでしょうね。
さて、鳥羽伏見の戦いで炎上した伏見奉行所ですが、その後は、陸軍の土地となり、工兵隊の基地になっていました。
そのため、第2次大戦後には米軍に接収されることになります。
現在の桃楼団地となったのは、米軍から土地を返還された後で、市営住宅が今もたくさん並んでいます。
団地の入口にある塀は、いかにも奉行所といった感じです。
そこには、「伏見奉行所跡」と刻まれた石碑が立っています。
桃陵団地付近を歩きながら、石垣や塀を眺めていると、江戸時代の伏見がどのような町だったのかをついつい想像してしまいます。