建武元年(1334年)6月に護良親王(もりながしんのう)が足利尊氏邸を襲撃する計画は未然に収まったものの、後醍醐天皇を中心とした建武の新政は、公卿と武士との間にある溝は深く、双方が協力しあうような関係にはありませんでした。
特に武士の不満が強く、鎌倉幕府を倒す前よりも、暮らしが悪くなっている状況。
反対に公卿の暮らしはぜいたくとなっており、このような状況では、武士の不満は増すばかりと考えた万里小路藤房(までのこうじふじふさ)が、改革に乗り出します。
石清水八幡宮に討幕の成功と王政一統を報告
万里小路藤房は、まず、公卿にぜいたくな衣装を身に付けることを禁じます。
そして、内大臣の洞院公賢(とういんきんかた)を更迭し、地味な吉田定房をその後任として、公卿の生活を質素にさせようとしました。
さらに討幕の成功と王政一統を報告するために後醍醐天皇の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)への行幸を計画します。この行幸で公武一和を図ろうとしたわけです。
行幸の日取りは9月21日に決定。
当日は、質素な服装で出かけることを公卿たちに言い渡すとともに行幸の列の前衛には足利尊氏、中衛には楠木正成、後衛には名和長年をつけて、武士たちが協力し合っていることを示そうとしました。
ところが、行幸の当日、万里小路藤房の意に反して、公卿たちは派手な服装で出発の準備をしており、今から物見遊山にでも行くような浮かれた姿となっていました。
これでは、逆に武士たちの不満が募る一方。
万里小路藤房の意図は、まったく公卿たちには伝わっていませんでした。
後醍醐天皇の御車は、その日のうちに石清水八幡宮に到着し、予定通り、討幕と王政一統の報告が行われました。
ちなみに石清水八幡宮には、楠木正成が植えたと伝わっている大きなクスノキがあります。
このクスノキは、楠木正成が建武元年に必勝祈願参拝の際に奉納したということで、樹齢は700年ほどです。
後醍醐天皇の石清水行幸の時に植えられたものかどうかはわかりませんが、建武元年に植えられたということは、楠木正成は、近い将来、戦乱となることを予想していたのでしょうね。
善法律寺で紅葉狩り
石清水八幡宮への報告を終えた後、後醍醐天皇の一行は、9月22日に下山し、男山のふもとの善法律寺を訪れました。
その目的は紅葉狩りです。
善法律寺は、紅葉寺と呼ばれており、当時から紅葉の名所として有名なお寺でした。
こういったところにも、公卿たちの浮かれた気分が現れていますね。
善法律寺では、石清水行幸の本来の目的を忘れた公卿たちが、ほとんど宴会のノリで、笑いあいながら紅葉狩りを楽しんでいました。
その席で、藤原康清という者が、門前の歌碑に書かれていた読人不知(よみびとしらず)の以下の歌を美声で朗詠したといわれています。
ほととぎす 八幡山崎 啼きかはす 声のなか行く 淀の川ふね
きっとこの時、公卿たちは、近い将来に訪れる南北朝の争乱のことをまったく想像することができていなかったのでしょうね。
石清水行幸を終えた後醍醐天皇は、23日に東寺、26日に賀茂社に参拝し、御所に戻りました。
自分の意思が後醍醐天皇に伝わらなかった万里小路藤房は、行幸の後、自宅に閉じこもったと伝えられています。