京都市中京区の烏丸御池駅は、地下鉄烏丸線と東西線が交差する駅です。
この烏丸御池駅の北東角から北に100メートルほど歩いた辺りに車道を向いている石碑が立っています。
歩道からでは、ただの石柱が立っているだけにしか見えませんが、車道からだと「梅田雲浜邸址」と刻まれているのがわかります。
安政の大獄で捕えられた第一号
梅田雲浜(うめだうんぴん)は、元小浜藩士です。
幕末になると、外国船がたびたび日本近海に現れることがあり、これに危機感を覚えた雲浜は、藩主の酒井忠義に海防の重要性を説きました。
これが、忠義の怒りに触れ、雲浜は小浜藩から追い出されます。
藩を除籍となった雲浜は、妻子とともに京都市左京区の葉山観音近くに移り住み、極貧の生活をします。
嘉永6年(1853年)のペリー来航時には、吉田松陰と今後の日本の進む道について方策を論じたり、ロシア艦隊が大坂湾に現れた時には襲撃しようとしましたが、これは未遂に終わっています。
外圧に危機感を覚えた梅田雲浜は、幕府が諸外国と結んだ和親条約に不満を持ちます。
関税自主権が無かったり、治外法権が認められていたりと日本にとって不平等な条約を締結した幕府の弱腰が気に入らなかったのです。
さらに幕府は、その後、安政5年(1858年)に日米修好通商条約を締結することを朝廷にはかることなく決定します。
当然のことながら、梅田雲浜はこれに対しても不満を持ちます。
しかし、彼のこういった思想は、幕府にとっては邪魔でしかありません。
幕府の政策に反対する声が大きくなり、広がり始めると、開国が困難となるからです。
そこで、大老の井伊直弼は、外国人を追い出そうという攘夷(じょうい)の思想を持った人々を捕えることを決定しました。
これが安政の大獄です。
大獄の始まりは、梅田雲浜の捕縛からでした。
その後、吉田松陰や橋本佐内なども捕えられ次々に処刑されていきます。
梅田雲浜も拷問を受けましたが、口を割ることなく、安政6年に獄中で病死しました。
自宅で潔く捕えられる
梅田雲浜が幕府に捕えられた時、彼は、烏丸御池の自宅にいました。
捕吏が捕えようとしたとき、雲浜は、少しの時間を頂きたいと言って、髪を結い直し着替えをして身なりを整えたと伝えられています。
そして、以下の2首の歌を詠んだ後、連行されました。
契りにし そのあらましも 今はただ おもひ絶えよと 秋風ぞ吹く
君が代を 思ふ心の 一筋に 吾身ありとも 思はざりけり
車道に向かって堂々と立つ「梅田雲浜邸址」の石碑を見ていると、幕府に捕えられたときの潔い雲浜の姿を想像してしまいます。
もしかしてそれを意識して車道に向かって石碑を立てたのでしょうか。
なお、梅田雲浜については、下のWEBサイトで詳しく解説されていますので、ご覧になってください。