京都市中京区の三条烏丸に新風館というショッピングモールがあります。
新風館はなかなかおしゃれな空間で、若い人たちに人気があり、ラジオの公開放送なんかも行われたりします。
この新風館の建つ辺りは、平安時代には、三条東殿という白河法皇の院の御所があった場所です。
はじめは藤原済家の邸宅だった
下の写真に写っているのは、新風館の北側にある三条東殿の跡を示す碑です。
説明書によれば、この地には11世紀初頭に藤原済家の邸宅があり、その後、子孫の藤原家通に伝えられたということです。
やがて、天治2年(1125年)に白河法皇がこの地を取得し、見事な殿舎を造営して院の御所としました。
白河法皇が崩御した後は、鳥羽上皇が院の御所として利用し、妻の待賢門院とともに住んでいましたが、長承元年(1132年)に火災で焼失しました。
その後は、後白河法皇の院の御所となります。
源義朝の焼き討ち
後白河法皇の時代は、平家や源氏といった武士が少しずつ力を持ち始めていた頃です。
保元の乱で勝利した平清盛と源義朝でしたが、やがて、両者の仲が悪くなり、平治の乱へと発展します。
平治の乱は、平清盛が京都を留守にしている間に源義朝がクーデターを起こした事件です。
平治元年(1159年)12月9日の夜。
源義朝は500の軍勢を率いて、三条東殿を襲撃し、後白河法皇の身柄を拘束して、一本御書所(いっぽんのごしょどころ)に幽閉します。
そして、三条東殿に火をかけると、折からの強風で、瞬く間に建物は炎に包まれました。
逃げまどう女房や公卿に対して、源義朝の軍勢は矢を射かけたり、斬って伏せたりしたため、御所内は完全にパニック状態となります。
そして、生き場を探しながら逃げる女房達は、炎から身を護るために井戸の中に飛び込みました。
その井戸に次から次と女房達が飛び込んでいくので、最初の方で飛び込んだ女房達はおぼれ死に、その後に飛び込んだ女房達は圧死、井戸の上の方にいた女房達は焼死したと伝えられています。
果たして、源義朝はここまでする必要があったのでしょうか。
後白河法皇の身柄を確保すれば、それでクーデターは成功だったと思うのですが。
新風館の北側に置かれた「三錠東殿遺址」の碑は、表面がツルツルとしていて、状態がきれいです。
新風館は、もともとは大正14年(1925年)から昭和4年(1929年)にかけて建設工事が行われた京都電電ビル西館でした。
レンガ造りの建物が、大正から昭和にかけて建てられたものという雰囲気を出していますね。
ちなみにこの建物は、昭和58年6月1日に京都市登録有形文化財に登録されています。
なので、そう簡単に取り壊されることはなさそうです。
2020年6月13日追記
2020年6月11日に新風館が営業を再開しました。
2016年3月29日追記
2016年3月27日に新風館は閉館しました。