元弘2年(1332年)に楠木正成が天王寺で討幕のために挙兵し、その後、11月には護良親王(もりながしんのう)も吉野で挙兵しました。
これに対して、鎌倉幕府も楠木正成がたてこもる赤坂城と千早城、護良親王がたてこもる吉野へ大軍を動員し、反乱を鎮めようとします。
幕府軍が、楠木正成と護良親王に手を焼いている間、今度は、元弘3年1月に赤松円心が播磨で挙兵しました。
山崎へ進軍
赤松円心の挙兵は、護良親王の令旨を受けたことによりますが、彼の子の赤松則祐(あかまつのりすけ)が護良親王に仕えていたことも理由とされています。
苔縄に集まった赤松勢は約3千。
これに対して、幕府軍は、北条時知と佐々木時信に1万5千の兵を持たせて赤松勢にあたらせます。
両軍が激突したのは摂津の摩耶山。
赤松勢は摩耶山にたてこもり、攻めてくる1万5千の兵を撃退し、さらに進攻する構えをみせます。
そして、3月には京都と大阪の境にある山崎に進軍。
遂に京都の六波羅探題を脅かす場所まで、赤松勢はやってきたのです。
三十三間堂付近で撃退される
赤松勢は、勢いに任せて六波羅探題を攻め滅ぼすべく京都へと突き進みました。
さすがに六波羅探題も赤松勢の侵攻を警戒し、大軍を持って赤松勢にあたらせます。
赤松勢の勢いはとにかく凄まじく、遂に六波羅探題とは目と鼻の先である京都市東山区の三十三間堂付近まで進軍していました。
六波羅探題までの距離は、現在なら電車で1駅程度。
ここまで来たら、六波羅を落としたも同然ですが、幕府軍の必死の抵抗により、赤松勢は退却することになります。
赤松円心が山崎まで逃げてきたときには見方は数騎しかいなかったと伝えられています。
途中で幕府軍の追撃が止んだこともあり、赤松円心は命拾いしました。
その後も、円心は、兵をかき集め、7千にまで膨れ上がったところで、再び京都へと侵攻しました。
しかし、六波羅探題も赤松勢には警戒をしており、4万の大軍で迎え撃ってきます。
赤松勢がどんなに押しても、六波羅の大軍は退きません。
何度あたっても六波羅勢の守りは固く、そのたびに赤松円心は京都と山崎の往復を繰り返すだけ。
そして、遂に守勢にあった六波羅軍が、山崎まで攻めてきました。
隠岐を脱出した後醍醐天皇が船上山(せんじょうせん)にたてこもり、そこから8千の兵を率いて千種忠顕(ちぐさただあき)が、京都に攻め上ってくるという情報が、六波羅に伝わったからです。
さすがに今回の六波羅の攻撃は今までよりも激しかったため、赤松円心は、一斉に退却。
山陰道を進軍してくる千種忠顕と連携し、再起を図ることにしたのです。
現在の大山崎町は、とてものどかな町です。
サントリーのビール工場も近くにあって、自然に恵まれた町ですね。
しかし、山崎は、桂川、宇治川、木津川が合流し、淀川となる三川合流地点があるため、京都の物流にとって重要な地であったことから、歴史の中では、戦略上重要な地であり、何度も大きな戦いがありました。
赤松円心と六波羅軍との戦いもそのひとつですね。