京都市東山区に建つ泉涌寺(せんにゅうじ)には、天智天皇からの歴代天皇の御尊牌を奉祀している霊明殿という建物があります。
現在の霊明殿は、明治17年(1881年)に明治天皇によって再建されたものです。
泉涌寺は、御寺(みてら)とも呼ばれており、皇室の菩提所として篤く信仰されてきたお寺です。
なので、霊明殿には、天智天皇からの歴代天皇の御尊牌が祀られているわけです。
しかし、不思議なことに天智天皇以降のすべての天皇の御尊牌が祀られているわけではありません。
天智天皇から光仁天皇の間の天皇が抜けている
下の写真は、霊明殿の入口となっている唐門です。
この唐門は常に閉まっているので、一般の参拝者は中に入ることはできません。
特別に公開されることがあるのかもしれませんが、基本的に拝観料を納めても唐門をくぐることはできません。
唐門の奥に建つ檜皮葺の屋根を持つ建物が霊明殿です。
一般の参拝者は、通常、このような形でしか霊明殿を見ることはできません。
さて、霊明殿に祀られていない歴代天皇ですが、これは、天智天皇の次の天武天皇から光仁天皇の前の称徳天皇までの第40代から第48代までの天皇です。
なぜ、第40代から第48代の天皇の御尊牌だけが祀られていないのでしょうか。
まさか、うっかり忘れていたなんてことはないでしょう。
何か意図があって祀っていないはずです。
これについては、井沢元彦氏の「逆説の日本史2」で、天智天皇が亡くなった後、皇位が天武天皇に移り、その後、称徳天皇まで天武天皇系の天皇が続くことになりますが、称徳天皇に子がなかったため、再び天智天皇系の光仁天皇に皇位が戻ったことが理由ではないかと述べられています。
天智天皇系だろうと天武天皇系だろうと、どちらも天皇なのだから、泉涌寺に祀られてもいいのではないかと思います。
しかし、井沢氏は、兄弟であるはずの天智天皇と天武天皇は、もしかして兄弟ではないのではないかと推測しています。
そうなると、天武天皇は天智天皇の正統な後継者ではないので、以後、称徳天皇までの天皇も天武系であるので、正統性がないということになります。
だから、泉涌寺には、天武天皇から称徳天皇までの御尊牌が祀られていないのだということです。
また、天智天皇には大友皇子という子がいたので、当然のことながら、天智天皇が亡くなった後は大友皇子が即位して、以後、その子孫が代々皇位につくはずでした。
しかし、壬申の乱で大友皇子は天武天皇に負けて亡くなっています。
天武天皇は皇位を天智天皇系から奪ったわけですね。
こう考えると、天武天皇系の天皇には正統性がないということになります。
いずれにしても、天武天皇が即位することに正統性が認められないことが、霊明殿に天武天皇から称徳天皇までの御尊牌が奉祀されていない理由だということですが、果たして真相はどうなのでしょうか。
なお、泉涌寺の詳細については以下のページを参考にしていてください。