笠置山落城後に後醍醐天皇が移送された平等院

元弘元年(1331年)8月24日に京都を脱出し南都に向かった後醍醐天皇の一行は、8月26日には奈良に入っていました。

天皇は、東大寺や興福寺に討幕のために起ち上がるようにと、僧の聖尋(しょうじん)を遣わしましたが、ともに断られたため、奈良を立ち去り、京都府南部の笠置山にたてこもって、幕府軍と戦うことにしました。

幕府軍の夜襲で笠置山炎上

笠置山にたてこもった後醍醐天皇に対して、鎌倉幕府は、大仏貞直(おさらぎさだなお)、金沢貞冬、足利高氏などが4万とも8万ともいわれる大軍を率いて笠置山に向かいました。

後醍醐天皇の軍は、諸国の武士たちに討幕のために起ち上がるように檄を飛ばしましたが、笠置山に集まったのはわずかに2千を超える程度でした。

多勢に無勢ではありますが、笠置山にたてこもった後醍醐天皇の軍は、なかなか頑強で、幕府軍をてこずらせていました。

幕府軍が攻めあぐねている中、9月27日の夜に幕府軍に加担していた陶山義高(すやまよしたか)が、手柄をたてて出世するためにわずか50人ほどで、笠置山に夜襲を仕掛けます。

天皇方に気付かれることなく、笠置山の山頂まで登ることに成功した陶山義高たちは、すぐに建物に火をかけました。

すると、山上の建物は一気に燃え上がり、後醍醐天皇の軍勢は、とるものもとらず、笠置山から逃げ出しました。

この時、後醍醐天皇もほとんど身ひとつの状態で笠置山を脱出します。

3日間山中をさまよう

笠置山を逃げ出した後醍醐天皇は、3日間、山中をさまよいました。

逃げ出した時には、宗良親王(むねながしんのう)や花山院師賢(かざいんもろかた)など何人かが後に従っていたのですが、気づけば、万里小路藤房(までのこうじふじふさ)と季房(すえふさ)の2名だけが供をしているだけです。

さしてゆく 笠置の山を いでしより あめが下には隠れ家もなし

と後醍醐天皇が吟じたところ、これにこたえて藤房が以下のように朗詠しました。

いかにせん たのむかげとて 立寄れば なお袖濡らす 松の下露

すると、近くで何やら人が近寄ってくる気配がしました。

幕府軍の残党狩りです。

3人の前に現れたのは、深栖三郎(ふかすさぶろう)という者。

目の前に後醍醐天皇方の残党と思しき3人の姿を見つけた深栖三郎は、松井蔵人とともに縄をかけて捕えようとします。

その無礼な振る舞いを見た万里小路藤房は、2人に対して、ここにいるのは後醍醐天皇だから無礼なことをしてはならないと言いました。

自分たちが今捕えようとしているのが後醍醐天皇だと知った2人は、慌てて輿を用意し、幕府軍の許へと3人を連れて行きました。

平等院から六波羅へ移送

深栖三郎に捕えられた後醍醐天皇たち3人は、捕虜収容所となっている永久寺へと連れていかれました。

そこには、笠置山落城以来、散り散りとなっていた聖尋、花山院師賢、北畠具行(きたばたけともゆき)、千種忠顕(ちぐさただあき)らもいました。

そして、永久寺から宇治の平等院へと、後醍醐天皇たちは移されます。

平等院鳳凰堂

平等院鳳凰堂

ここで、六波羅から常盤範貞が迎えに来るまでの2日間を後醍醐天皇はすごすことになります。

そして、平等院から京都に護送された後醍醐天皇は、南六波羅の別院に押し込められ、鎌倉幕府の処分を待つ身となりました。

なお、平等院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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