正中元年(1324年)に後醍醐天皇の討幕計画が事前に漏れてしまい、関係者が六波羅探題に次々と捕えられる正中の変が起こりました。
最終的に正中の変の責任は、日野資朝(ひのすけとも)が一身に背負って、佐渡に島流しになったことで決着しました。
これで、平穏な日々が戻ってくるかに思えましたが、後醍醐天皇の討幕の意思は変わることがなく、この後も様々な計画を立てて討幕へと向かっていきます。
諸国に討幕のための挙兵を促す日野俊基
正中の変で捕えられたものの無罪放免となった日野俊基は、諸国の武士たちに天皇のために討幕の挙兵をするように説いて回っていました。
その中には、河内の楠木正成も入っています。
当然、日野俊基の動きに関しては、六波羅探題も監視していました。
また、後醍醐天皇は、嘉暦2年3月に僧の円観や文観(もんかん)などに鎌倉幕府の前執権で先ごろ出家した北条高時を呪詛させていました。
さらに元徳2年には、後醍醐天皇が、春日社、東大寺、興福寺、日吉社、延暦寺などに頻繁に行幸をすることがあり、六波羅探題の後醍醐天皇に対する討幕計画の疑いが強まっていきました。
天皇は過去に討幕未遂事件を起こしているだけに山門と手を組んで、再び、反旗を翻すのではないかと六波羅探題が疑うのも当然のことです。
吉田定房の密告
後醍醐天皇の討幕計画は着々と進んでいるように思えましたが、思わぬところに裏切り者がいました。
それは、天皇の乳父(めのと)の吉田定房でした。
定房は、元徳3年(1331年)4月29日に密書を鎌倉幕府に持ち込み、後醍醐天皇の周囲の者たちが、討幕の準備をしていると告げたのです。
これを受けた幕府は、すぐに日野俊基の捕縛に向かいます。
自分が狙われていることを知った日野俊基は、直ちに自宅を離れ、御所へと向かいました。
どんなに六波羅探題が権力を持っていたとしても、御所の中まで入ることは許されることではありません。
日野俊基が、御所へ逃げ込もうとしたところで、彼は、六波羅探題の手の者に見つかってしまいました。
とにかく御所の中に入ってしまえば助かると思っていた日野俊基は、なんとかその敷地内に入ることができましたが、追手はひるむことなく御所内に侵入してきます。
しつこく追ってくる六波羅探題の者たちから逃れるために必死に御所の奥へと逃げる日野俊基でしたが、とうとう承明門の近くまで来て捕縛されてしまいました。
承明門の奥には、紫宸殿が見えます。
日野俊基はあともう少しというところで、力尽き、六波羅探題に捕まったのです。
捕えられた日野俊基は、鎌倉に送られ死罪となりました。
また、北条高時を呪詛した僧たちもすぐに捕えられ、円観は陸奥、忠円は越後に島流しとなります。
文観にいたっては拷問を受け死罪となるところでしたが、比叡の使いの数千の猿が北条高時の夢の中に現れたことから、死罪を減じられ硫黄島への島流しとなりました。
そして、正中の変で佐渡に流されていた日野資朝も、死罪となっています。
なお、これら一連の事件は、この年の8月に元弘と改元されたことから、元弘の変と呼ばれています。
吉田定房の真意
ところで、なぜ後醍醐天皇に近い吉田定房が、鎌倉幕府に討幕計画を密告したのでしょうか。
後醍醐天皇は、大覚寺統と呼ばれる皇統の流れを汲む天皇です。
大覚寺統の他に持明院統(じみょういんとう)といわれる皇統もあり、帝位は両統から交代に出すということが、文保元年(1318年)に決められていました。
後醍醐天皇の後には持明院統から天皇をたてることになりますから、嘉暦元年に持明院統の量仁親王(かずひとしんのう)が、後に天皇となるべく皇太子の座に着きました。
後醍醐天皇が、できるだけ長く帝位にあるためには、鎌倉幕府に対して悪い印象を与えてはいけません。
そこで、吉田定房は、討幕計画の首謀者が日野俊基であると鎌倉幕府に密告し、この計画は後醍醐天皇とは関わりのないこととして、帝位を護ろうとしたのです。
吉田定房の密告は、後醍醐天皇の事を考えたものであったわけですね。
なお、京都御所の詳細については以下のページを参考にしてみてください。