蒙古襲来があった鎌倉時代中期以降、幕府の信用が悪化していきます。
幕府のために蒙古軍と戦った御家人たちに、恩賞として分け与える土地がなかったことがその理由です。
御家人たちの不満は、他にもありました。それは、幕府の政務を担当していた北条家の権力が強大化していったことです。
窮乏する御家人たちと違い、北条家だけ栄える状況に人々の不満が募るのは当然のこと。
さらに元亨元年(1321年)には、京都で台風、水害、地震といった天変地異が相次ぎ、庶民たちの暮らしも苦しくなっていきます。
加えて、元亨2年に東北で蝦夷が反乱を起こし、鎌倉幕府への不満が加速していきました。
こういう状況になると、幕府を倒さなければならないと考える人が出てきます。
それが、後醍醐天皇でした。
無礼講で討幕を計画する
後醍醐天皇は即位すると、院政を廃止しました。
後醍醐天皇の理想は、平安時代前期の延喜、天暦の頃のように天皇が政治の中心となることにありました。
そして、記録書を復活させ、天皇みずからが訴訟の決裁を行うことにして、政務につくこととしました。
しかし、鎌倉幕府が実権を握っている以上は、天皇親政を実現させることはできません。
政情不安を解消するためにも、幕府を倒して、天皇を中心とした新たな政治体制を造ることが必要と考えた後醍醐天皇は、討幕を計画します。
後醍醐天皇の討幕計画は、側近の日野資朝(ひのすけとも)と日野俊基(ひのとしもと)を諸国に派遣して同志を募り、具体的な計画は無礼講と呼ばれる宴会の中で進められることになりました。
無礼講は、公卿や僧など多くの人々が集まり、酒を飲んだり踊ったりして楽しい時間を過ごすものですが、それは、鎌倉幕府の京都にある出先機関の六波羅探題の目をごまかすためのもので、宴会が開かれるたびに着々と討幕の計画が練られていきます。
そして、元亨4年9月23日の北野天満宮の祭礼の日に討幕のために挙兵することが決定されました。
この日は、町が人々でごった返すため、六波羅探題でも、警備のための兵を出さなければならず、六波羅が手薄になるからです。
しかし、この計画は、9月19日に六波羅探題によって察知されてしまいました。
妻に話した一言で計画が漏れる
六波羅探題が討幕計画を知ったのは、土岐頼員(ときよりかず)の妻の密告によってでした。
土岐頼員が頻繁に無礼講に参加して、酔って帰ってくることに嫉妬した妻が、彼を問いただし、討幕を計画しているということを聞きだします。
これは一大事と思った妻は、きっと夫は日野俊基たちにそそのかされて、このような計画に参加させられたに違いないと思い、六波羅探題にいる父の斎藤利行にその内容を報告し、土岐頼員を助けて欲しいと懇願しました。
討幕計画を知った六波羅探題は、9月19日の早朝に無礼講に参加していた多治見国長と土岐頼兼の屋敷を襲撃して討ち取り、日野資朝と日野俊基を捕えます。
そして、捕えられた日野資朝と日野俊基は、京都の東の蹴上を超えて、鎌倉へと護送されていきました。
この討幕計画の失敗は、この年に元亨から正中(しょうちゅう)に改元されたことから正中の変と呼ばれています。
日野資朝だけが処分される
鎌倉に護送された日野資朝と日野俊基は、裁きを受けることになりました。
また、後醍醐天皇は万里小路藤房(までのこうじふじふさ)に勅書を持たせ鎌倉に派遣しました。
幕府としては、今回の討幕計画が後醍醐天皇の指図によるものかどうかといったことが重要で、万里小路藤房が持ってきた勅書には、討幕計画に天皇が加担したことを謝罪する内容が書かれているに違いないと推測していました。
そこで、幕府の政務をとっている執権の北条高時が、文箱を開けて勅書を読むようにと斎藤利行に命じます。
しかし、天皇が武士にあてた勅書を開いて読むのは、無礼な行い。
勅書を開くべきかどうか苦悶していた斎藤利行が、意を決して読み始めたところ、突然、口から血を吐き、地面に倒れてしまいました。
これを見た周囲の人々は驚き、勅書を読もうとした神罰に違いないとして、すぐにそれを文箱の中に戻し、後醍醐天皇に返すことにしました。
最終的に幕府の裁きにより、正中の変の責任は、日野資朝だけがとることになり、佐渡に島流しとされます。
同じように討幕計画に深くかかわっていた日野俊基は無罪放免となり、後醍醐天皇もお構いなしとして、決着しました。
しかし、この時の甘い裁きが、後に鎌倉幕府にとっては大きな打撃となります。