織田信長は、比叡山を焼き討ちしたり本願寺と長年にわたって争ったりと、宗教弾圧を行った事で有名です。
神をも恐れない人物、古い体制を壊して新時代を創造する人物、織田信長にはそういった印象がありますね。
でも、信長が全面的に宗教を否定していたのかというと、そんなこともなかったようです。
浄土宗の貞安に帰依する
天正3年(1575年)。
能登の西光寺に貞安という浄土宗の僧がいました。
この年、上杉謙信の穴水城攻めから逃れるため、貞安は、近江に逃れ、翌年に安土の円通寺に入ります。
安土と言えば、織田信長の安土城があった場所です。
ここで、貞安は、信長の帰依を受け、能登西光寺にならって西光寺を建立し、当地で浄土宗を広めました。
信長が、浄土宗の僧に帰依するなんて、比叡山焼き討ちや本願寺との争いを考えると、想像しにくいですね。
信長は、神仏を完全に否定していたわけではないということです。
その後、天正7年に貞安は、信長の命により霊誉玉念らとともに浄土宗の代表として安土宗論に参加します。
そして、法華宗の僧侶を論破し、信長から軍配団扇と朱印の感状を下付されました。
本能寺の変の後、大雲院を創建して信長父子の菩提を弔う
織田信長の天下統一は着々と進んでいたかに見えましたが、思わぬところに落とし穴がありました。
それは、家臣の明智光秀の謀反です。
天正10年6月2日。
京都の本能寺に宿営していた信長は、ここで明智光秀によって討ち取られます。
この知らせを受けた貞安は、大切な理解者を失ったのですから、とても落胆したことでしょう。
その翌年に貞安は上洛します。
京都において貞安は、天正13年に正親町天皇(おおぎまちてんのう)に選擇集を講じて僧伽梨大衣を賜り、翌年に紫宸殿で説法をし、正親町天皇の第一皇子である陽光院誠仁親王親書の阿弥陀経を賜っています。
正親町天皇は、信長の援助を受けて朝廷の財政を再建したことで知られています。
その正親町天皇の勅命で、織田信長とその子の信忠の菩提を弔うために創建されたのが大雲院で、開山となったのが貞安でした。
ともに信長に恩があったわけですから、彼の菩提を弔うお寺の創建にかかわったことは、何ら不思議ではありませんね。
大雲院は、当初は、烏丸二条の御池御所に建っていましたが、その後、秀吉の京都改造で寺町四条に移り、近年、東山に定まりました。
大雲院の墓地には、もちろん織田信長の碑があります。
上の写真に写っている碑がそれですね。
信長の法名は右側、信忠の法名は左側に刻まれています。
なお、お寺の名が大雲院となったのは、信忠の法名にちなんだものです。
宗教弾圧を行った印象が強い織田信長ですが、宗教に対する理解を示した側面もあったことを大雲院にある信長の碑が証明していると言えますね。
なお、大雲院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。