大村益次郎の墓碑・京都霊山護国神社

京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)には、明治維新に貢献した志士たち1,356名が祀られています。

その多くが、明治維新を見る前に亡くなった志士たちなのですが、中には、明治維新を迎えた後に亡くなった志士の墓碑もあります。

長州藩士の大村益次郎もそのうちのひとりです。

ひとつだけポツンと置かれた墓碑

大村益次郎の墓碑は、墓地の中央やや西側に置かれています。

大村益次郎の墓碑

大村益次郎の墓碑

他の志士たちの墓碑は、秩序整然と横にずらっと並んでいるのですが、大村益次郎の墓碑だけは、ポツンと1ヶ所に置かれています。

愛想がよくなかったと伝わっている大村益次郎らしいと言えばらしいですね。

大村益次郎は、長州出身だったのですが、幕府の講武所で教授をつとめていた蘭学者でした。

長州藩と言えば、外国人を日本から追い出せという攘夷(じょうい)を声高に叫ぶ志士がすぐに思い浮かぶのですが、大村益次郎は、彼らとは違っていますね。

平和な時代であれば、大村益次郎も学者として一生を終えたのでしょうが、幕末という激動の時代に生まれたことが彼の運命を変えることになります。

大村益次郎の頭脳に注目したのが、長州藩の桂小五郎でした。

桂小五郎は、藩に彼を藩士として雇うように推薦し、これを藩も認め、以後、大村益次郎は長州藩に仕えることになります。

長州藩に仕えた大村益次郎は、幕府の第2次長州征討でその才能を発揮します。

数の上では圧倒的に不利な長州藩の作戦を大村益次郎が引き受け、幕府軍に勝つことに成功したのです。

その後、幕府の力は急速に衰え、慶応4年(1868年)正月に起こった鳥羽伏見の戦いでは、長州藩と薩摩藩を中心とした新政府軍が幕府軍に勝利します。

江戸に引き上げた15代将軍徳川慶喜は、新政府軍に江戸城を明け渡すことを決定しましたが、全ての幕臣が、この決定に納得したわけではありませんでした。

新政府軍に反抗する幕臣は彰義隊(しょうぎたい)を結成、両者は上野で激突することになりました。

この上野の戦いで新政府軍の指揮を執ったのが大村益次郎で、わずか1日で彰義隊を壊滅に追い込み、新政府軍に勝利をもたらしました。

この後も大村益次郎は、会津藩を中心とする奥羽越列藩同盟に勝利し、明治維新の実現に大いに貢献しました。

しかし、大村益次郎は、愛想が悪かったことが災いし、翌年に三条木屋町で刺客に襲撃され、その時の怪我がもとで亡くなりました。

京都霊山護国神社の大村益次郎の墓碑が、ひとつだけ離れたところに置かれているのは、彼が他の志士たちとは別格ということなのかもしれませんが、無愛想だった彼を象徴しているように思えます。

なお、京都霊山護国神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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