文久2年(1862年)2月。
14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)と皇女和宮(かずのみや)の婚礼が行われました。
両者はともに16歳。
皇女が武家に嫁ぐというのは、過去に例がなかったのですが、時世が両者を結び付けることとなったのです。
婚約を破棄して家茂に嫁ぐ
和宮には、すでに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)という婚約者がいました。
そのため、彼女の兄である孝明天皇は、家茂に和宮を嫁がすことを拒否します。
しかし、幕府は、黒船来航以来、権威を失いつつあり、家茂と和宮の婚儀によって、朝廷と幕府が協力して国難を乗り切る公武合体を推し進めることで、幕府への不満を和らげようという狙いがあったことから、孝明天皇の返事を簡単には受け入れることができません。
結局、様々な条件はあったものの、和宮は、家茂との婚姻を受け入れ、江戸城に入りました。
和宮は、当初は、家茂が荒々しい人物なのではないかと警戒心を持っていましたが、家茂の彼女への接し方が、とても優しかったため、次第にお互いの仲が深まっていきました。
一旦は、公武合体で政治が進められることになったものの、情勢は、やがて倒幕へと進んでいきます。
倒幕の急先鋒は長州藩で、幕府は、これを討伐するため、家茂が大坂城に入りました。
しかし、長州征伐は幕府の思うように進まず、その最中の慶応2年(1866年)7月に家茂は病気でこの世を去りました。
家茂の訃報を江戸城大奥で知った和宮は、とても悲しんだと伝えられています。
元婚約者が江戸城攻め
長州征伐が失敗に終わった幕府は、その後急速に力を失い、翌年の慶応3年には、政権を朝廷に返上する大政奉還を決定します。
さらに慶応4年1月には、鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は、新政府軍に敗れます。
家茂の後15代将軍となった徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は、大坂城からこっそりと抜け出し、軍艦に乗って江戸城まで逃げ帰ってきました。
鳥羽伏見の戦い後、新政府は、徳川慶喜を追討するため、征討軍を編成しました。
その征討軍総督となったのが、和宮の元婚約者であった有栖川宮熾仁親王だったのです。
江戸に逃げ帰った慶喜は、その後、恭順の姿勢を貫き、また、和宮が助命に尽力したことから、徳川家は存続することになりました。
江戸城も、西郷隆盛と勝海舟の会談により無血開城が行われ、和宮も江戸城を去ることになります。
その後、和宮は、明治10年(1877年)9月2日に療養先の箱根で亡くなりました。
享年31歳。
なお、この年の2月に西郷隆盛が反乱を起こす西南戦争が起こりましたが、その時、征討軍の鹿児島逆徒征討総督には、有栖川宮熾仁親王が任じられています。
和宮の生家
和宮は、弘化3年(1846年)に橋本実久の娘の経子を母として生まれ、14年間、橋本家で養育されました。
その橋本家跡が、京都御苑内の京都御所の東の芝生にあります。
今は、「皇女和宮生誕の地(橋本家跡)」と書かれた木が地面に埋められ、その隣に説明書が立っているだけです。