京都市の上京区と北区の境目辺りに櫟谷七野神社(いちいだにしちのじんじゃ/いちいだにななのじんじゃ)という神社が建っています。
櫟谷七野神社は、文徳天皇の染殿皇后が安産祈願のために春日権現を勧請(かんじょう)したのが始まりと伝えられています。
あまり聞いたことがない神社と思いますが、実は賀茂斎院跡という歴史的に興味深い場所に建っています。
紫野斎院跡
櫟谷七野神社の鳥居は、道路の真ん中に建っています。
この辺りは道路があまり広くなく、民家が密集しているので、いきなり目の前に鳥居が現れるとびっくりします。
櫟谷七野神社は、鳥居の西に境内があり、石段を上がった先に社殿が建っています。
まずは本殿にお参り。
近くにお稲荷さんも祀られていたので、こちらにもお参りしておきました。
社殿の右手前には、下の写真に写っている賀茂斎院跡の石碑が置かれています。
斎院とは、平安時代から鎌倉時代にかけて上賀茂神社と下鴨神社の両賀茂社に奉仕した斎王の御所のことです。
この辺りの地名が紫野であったことから紫野斎院とも呼ばれていました。
斎王は、嵯峨天皇の皇女の有智子内親王(うちこないしんのう)を初代とし、後鳥羽天皇の皇女の礼子内親王(いやこないしんのう)まで約400年、35代続きました。
礼子内親王が建暦2年(1212年)に病気のため退下した後は、経済的理由から斎院は廃絶しています。
説明書によると、歴代の斎王に仕えた女房たちは、才媛が多く、斎院は歌壇としても知られていたそうです。
しかし、斎院の廃絶後、応仁の乱(1467年)によって荒廃し、歴史の中に埋もれてしまいました。
鹿の像と石垣の家紋
櫟谷七野神社の境内には、1頭の鹿の像が立っています。
鹿は春日明神の使いとされているので、境内におかれているのでしょうね。
写真は、「京都 いろんな顔」さんの櫟谷七野神社の記事に掲載されていますので、ご覧になってください。
また、社殿は石垣の上に建っているのですが、この石垣には、家紋が刻まれています。
櫟谷七野神社を現在地に再建したのは豊臣秀吉です。
秀吉が再建する際、これに参加した大名が、石垣に家紋を刻んだとされています。
石垣の家紋の写真は、京都PHOTO CLIPというWEBサイトの櫟谷七野神社のページに掲載されていますのでご覧になってください。
櫟谷七野神社は、街中にひっそりと建っていますが、歴史的に興味深い場所なので、訪れてみてください。