幕末の京都の治安を守るために結成された新撰組。
新撰組の局長は近藤勇(こんどういさみ)で、彼は、京都でテロ行為を行っていた不逞浪士たちに恐れられる存在でした。
その近藤勇と関係のある藤森神社が京都市伏見区に建っています。
石造鳥居の扁額
藤森神社の南の入り口には石造りの鳥居が建っています。
通常、鳥居には、社名が書かれた扁額がかかっているのですが、藤森神社の鳥居には扁額がかかっていません。
もともと鳥居ができた時から扁額がなかったわけではありません。
藤森神社の説明書によると、この鳥居には、正徳元年(1711年)の銘があり、以前は、後水尾天皇宸筆の額がかかっていたそうです。
そのため、江戸時代には、西国大名が参勤交代で藤森神社の前の通りを通行する際、駕籠から下りて拝礼をし、槍などは倒して通らなければなりませんでした。
時代は過ぎて幕末の動乱期。
鳥居の前を通る時にいちいち拝礼をするような悠長なことをしていては、時代に合わないとして、近藤勇が扁額をはずしたそうです。
以来、現在もこの鳥居には扁額がかかっていません。
腰痛を治すために参拝
神社の鳥居の扁額をはずしてしまうとは、近藤勇は神をも畏れない人物だと思ってしまいますが、そうでもないようです。
藤森神社の境内には、御旗塚というしめ縄が巻かれた大木の切り株が祀られています。
御旗塚は、「いちの木さん」とも呼ばれており、参拝すると腰痛が治ると伝えられています。
そして、この御旗塚に近藤勇も参拝して腰痛を治したそうです。
ところで、近藤勇は、いつ藤森神社に参拝したのでしょうか。
神社の説明書には、参拝時期が記載されていなかったので、新撰組が京都にいた文久3年(1863年)から慶応3年(1867年)の間ということしかわかりません。
ただ、慶応3年の暮れに新撰組は、不動堂村の屯所から伏見奉行所に移動しているので、この頃に近藤勇は、藤森神社に参拝したのではないでしょうか。
また、伏見奉行所に移動して約1ヶ月後の慶応4年1月に藤森神社周辺で、鳥羽伏見の戦いが起こっていることからすると、鳥居の扁額をはずしたのは、新政府軍との戦いに備えるためだったのかもしれません。
しかし、近藤勇は、鳥羽伏見の戦いに参戦することなく、大坂城へと引き上げています。
その理由は、戦いが始まる少し前に藤森神社の南で、新撰組の脱走者によって肩を狙撃されたからです。
せっかく御旗塚に参拝して腰痛を治したのに肩を撃たれるとは、なんとも不運ですね。
鳥居の扁額を外した罰が当たったのでしょうか。
なお、藤森神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。