平安時代末期に権力を握っていたのは、平家一門でした。
しかし、大いに栄えた平家もやがて源氏によって滅ぼされることになります。
そのきっかけとなった史跡が京都府宇治市の平等院に今も残っています。
源頼政の挙兵
平家滅亡のきっかけを作ったのは、源頼政でした。
頼政は、平治の乱(1159年)で、平清盛に味方し、同族の源義朝を倒しました。
この戦いの後、平家は全盛期を迎え、源氏は頼朝が島流しにされるなど、歴史の舞台から長い間、姿を消すことになります。
平家に味方した頼政も、大して出世することなく、70歳を過ぎる老齢となっていました。
治承4年(1180年)のある日。
源行家が頼政のもとに訪れます。
行家は、以仁王(もちひとおう)を担ぎ上げて、平家追討のために挙兵しようと頼政に持ちかけました。
頼政は、以前に我が子の仲綱が平宗盛に馬鹿にされたこともあり、以仁王とともに挙兵することを決心します。
しかし、この挙兵は直ちに平家の知るところとなり、頼政は以仁王とともに奈良興福寺に逃げようとしましたが、宇治川で平知盛率いる平家軍に追いつかれました。
扇の芝と頼政の墓
頼政は、押し寄せてくる平家の大軍から以仁王を守るために宇治橋で応戦します。
しかし、善戦空しく頼政軍は平家に敗れました。
体に流れ矢を受けた頼政は、宇治橋からほど近い平等院へと向かいました。
「もはやこれまで」と悟った頼政は、子の仲綱とともに芝生の上で自害して果てます。
埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果てぞ 哀れなりける
上の歌は、頼政が詠んだ辞世の一首と伝えられています。
そして、頼政が自害した場所とされる芝生が平等院の境内に残っています。
そこは、「扇之芝」と呼ばれています。
その名のとおり、扇状の芝生となっています。
また、平等院の子院の最勝院には、頼政の墓もあります。
そばには、源三位頼政(げんざんみよりまさ)の墓と書かれた看板があり、「平清盛の横暴に憤り高倉宮以仁王の令旨(りょうじ)を奉じ平家打倒の義兵を挙ぐ」と記述されています。
さらに平等院内の浄土院には、頼政に仕えた太敬庵通圓の墓があります。
太敬庵通圓も頼政の挙兵に馳せ参じ、宇治橋の戦いで戦死しています。
上の写真の左側が太敬庵通圓の墓です。
ちなみに狂言に通圓という演目があります。通圓については以下のWEBサイトで解説されていますので、ご覧になってください。
通圓- 狂言「通圓」2013年9月6日追記:左記ページは閉鎖しています。
宇治橋の戦いから5年後に平家は壇ノ浦で滅亡します。
その基となったのが、源頼政の挙兵であり、平等院の扇の芝は、70歳を過ぎて決起した頼政の功績を今に伝えています。
なお、平等院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。