京都市東山区には、五条通と東大路通が交差するあたりに建っている大谷本廟(おおたにほんびょう)と円山公園近くに建っている大谷祖廟(おおたにそびょう)という似たような名前の建物があります。
名前が似ているということは、両者は関係があるということなのですが、訪れる方が少ないので、ご存じない方も多いのではないでしょうか。
そこで、今回の記事では簡単に大谷本廟と大谷祖廟について紹介したいと思います。
大谷本廟
大谷本廟は、弘長2年(1262年)に浄土真宗の宗祖である親鸞が死去した際にその末娘の覚信尼が知恩院の山門の北側に遺骨を安置する廟所を造営したのが始まりです。
以来、親鸞と歴代宗主の廟所となっています。
その後、慶長8年(1603年)に江戸幕府によって現在地に移転させられました。
大谷本廟は、西本願寺の親鸞の廟所であり、西大谷とも呼ばれています。
大谷本廟の入り口には、江戸時代に造られた円通橋という橋が架かっています。
横から見ると円い穴が2つ空いていることから、眼鏡橋とも呼ばれたりします。
秋には、カエデが真っ赤に紅葉することでも知られていますね。
大谷祖廟
大谷祖廟は、東本願寺の飛地境内で、親鸞の墓所です。
文永9年(1272年)に門弟によって廟堂に改められました。
その後、本願寺の分派に伴い、寛文10年(1670年)に大谷祖廟が現在地に造営され、親鸞、歴代門主、全国の門徒の遺骨が納められるようになりました。
なお、大谷祖廟は、東大谷とも呼ばれています。
徳川家康の本願寺の分派
以上、簡単に大谷本廟と大谷祖廟を紹介しましたが、要は西本願寺の親鸞の廟所が大谷本廟で、東本願寺の親鸞の廟所が大谷祖廟ということですね。
ところで、どうして本願寺は、東西2つ存在しているのでしょうか。
安土桃山時代、本願寺は、織田信長と11年もの間、戦い続けていました。
当時、本願寺は大坂にありましたが、信長との戦いに敗れ、門主の顕如(けんにょ)は和歌山へと逃げました。
その後、信長が亡くなり、豊臣秀吉の世になりました。
顕如は、秀吉に京都に呼び戻され、天正19年(1591年)に六条堀川に広大な敷地を与えられ、本願寺を再興します。
顕如は翌年亡くなり、その長男である教如が後を継ぎましたが、教如は秀吉から嫌われ、すぐにその地位を弟の准如に譲りました。
やがて、秀吉もこの世を去り、徳川家康の時代がやってきます。
家康は、慶長7年に教如に烏丸七条の土地を与え、そこに阿弥陀堂が建立されました。
これが東本願寺の始まりです。
そして、六条堀川にある本願寺は、西本願寺と呼ばれるようになりました。
徳川家康が、本願寺を東西に分派したのは、若い時に浄土真宗の信者達が起こした一向一揆に苦戦したからだと言われています。
本願寺が大きくなると再び家康を悩ます恐れがあるので、東西2つに分けてその力を分散したわけですね。
なお、知恩院山門の北には、「本願寺発祥之地 蓮如上人御誕生之地 親鸞聖人旧御廟所 元大谷崇泰院」という石碑と建物が建っています。
この場所が本願寺発祥の地なんですね。