平家追討に立ちあがった以仁王と源頼政・宇治橋

治承4年(1180年)4月。

後白河法皇の皇子の以仁王(もちひとおう)が、全国の源氏に平家追討の令旨(りょうじ=皇子の命令)を発しました。

この令旨によって、20年間栄華を極めた平家は滅亡へと転がり落ちていくことになります。

以仁王と共に挙兵した源頼政

以仁王の味方には、77歳になる老人がいました。

その老人の名は、源頼政

頼政は、平治の乱の時、平清盛に味方し、同族の源義朝と戦って勝利しています。

平治の乱の後、平家が力を持ち、源氏の者達は処刑されたり島流しにされたりしました。

頼政は、平家に味方したので処刑されることも島流しにされることもありませんでしたが、長い間出世もしませんでした。

しかし、彼は清盛の計らいによって、後に従三位(じゅさんみ)という位に叙せられ、源氏としては初の公卿となっています。

そんな清盛に恩のある頼政が平家打倒のために以仁王の味方に付くとは、平家の誰もが思いもよらないことでした。

頼政が、以仁王に加担した理由には以下の説があります。

彼の長男の仲綱は、木の下(このした)という名馬を所有していました。

その木の下を平宗盛が貸してほしいと頼んできたので、仲綱は渋々貸すことにしました。

しかし、それから何日経っても、木の下を返す気配がなかったので、仲綱が家臣を宗盛の邸につかわしたところ、宗盛の家臣が木の下を仲綱と呼んで、強く鞭を打ったり、「なかつな」と焼印を入れたりしていました。

これを知った仲綱と頼政は激怒し、以仁王を担ぎあげて、平家追討に立ちあがったと伝えられています。

上の説が頼政の本心だったのかどうかはわかりませんが、平家物語では、そのような設定となっています。

以仁王が全国の源氏に令旨を発したことは、すぐに平家に伝わります。

そして、5月15日に平家は、以仁王の皇位を剥奪し、土佐に島流しにすることを決定しました。

三井寺へ脱出も

以仁王の島流しを決定した平家は、三条高倉の邸宅に彼を捕えに行きます。

平家軍の中には、源頼政の次男である兼綱の姿もありました。

この時、平家は、頼政父子が以仁王に加担していることを知りませんでした。

平家の動きを素早く察知した以仁王は、女装をして、滋賀県の三井寺(みいでら=園城寺)へと逃げます。

以仁王が三井寺にかくまわれていることを知った平家は、三井寺に討伐に向かうことを決定しましたが、この時はじめて源頼政が以仁王に加担していることを知りました。

一方の三井寺では、平家の邸宅がある西八条に夜討ちをかけるかどうかの議論が行われていました。

しかし、三井寺の中には、 平家を支持する僧も多く、夜討ちをすべきかどうか、なかなか決まりません。

そんな中、比叡山延暦寺にも三井寺追討の命が降ります。

頼政は、このまま議論していては、平家の追討軍が三井寺に押し寄せてしまうと考え、5月25日の夜、以仁王とともに三井寺を出て、奈良の興福寺へ向かうことにしました。

宇治橋の戦い

頼政と以仁王は、三井寺から南下して宇治橋を越えて奈良へと進む道を選びました。

険しい道が続く中、心身ともに疲れた以仁王は、6回も馬から落ちたと伝えられています。

なお、頼政と以仁王がこの時通った道は、頼政道と呼ばれ、現在でも所々に史跡が残っています。

詳しいことは、「古都、醍醐名所名跡誌」というウェブサイトの下記ページで紹介されていますので、ご覧になってください。

5月25日の夜に三井寺を出発した以仁王と頼政は、26日に宇治橋に辿り着きます。

宇治橋を渡ってしまえば、もう少しで奈良の興福寺。

しかし、ここで平家軍が遂に以仁王達に追いつきます。

その数は、28,000騎。

対する頼政軍は、わずか500騎。

実際には、両者の軍勢はこれよりも遥かに少ない人数だったと考えられますが、それでも頼政軍が数の上では圧倒的に不利であったことは伺えます。

頼政は、平家軍が渡れないように宇治橋を破壊し、以仁王を興福寺に逃れさそうとしました。

しかし、平家軍も以仁王が逃げるのを放ってはおきません。

平家方の武将の足利忠綱が、馬を川に並べて筏(いかだ)を作り川を渡る馬筏を組んで、宇治川を渡り始めました。

頼政軍は、三井寺の法師武者の筒井浄妙(つついじょうみょう)や五智院但馬(ごちいんのたじま)が平家軍を渡らせないように奮闘しますが、やはり、多勢に無勢。

遂に平家軍に宇治川を渡られてしまいました。

頼政軍は、宇治橋の南にある平等院で死力を尽くして戦いましたが、長男の仲綱は自害、次男の兼綱も戦死、三井寺の法師武者たちも次々と最期を遂げていきます。

もはやこれまでと観念した頼政は自害し、以仁王も逃げる途中流れ矢に当たって討ち死にしました。

以仁王と源頼政の挙兵は失敗に終わりましたが、以仁王の令旨は諸国の源氏の許に届き、この後、源頼朝や木曽義仲が次々と平家追討のために挙兵していきます。

なお、宇治橋の戦いは、橋合戦とも呼ばれています。

現在の宇治橋と宇治川

宇治橋は、現在でもJR宇治駅や京阪宇治駅からすぐの場所に架かっています。

宇治橋

宇治橋

さすがに現在の宇治橋は頑丈に造られているので、人の力では、そう簡単に壊すことはできません。

また、宇治川もダムから水が放流された時には、ものすごい勢いで水が流れるので、馬筏を組んで渡ることは不可能でしょう。

宇治川

宇治川

現在のように宇治川の流れが速ければ、平家軍は川を渡れなかったでしょうね。

なお、以仁王は宇治橋の戦いで亡くなったとされていますが、実はこの戦いで戦死しておらず、北陸まで落ち延びたとも伝えられています。

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