鴨川に架かる橋には、五条大橋や四条大橋などたくさんありますが、その中でも比較的有名で、人通りが多い橋が三条大橋です。
この三条大橋は、東海道の西の端ということで、歴史の舞台にも登場することが多いのですが、幕末の池田屋事件では、2か所の擬宝珠(ぎぼし)に刀傷がついたとされています。
南北の西から2つ目の擬宝珠についた刀傷
池田屋事件でついたとされる刀傷は、橋の北側と南側の2か所にあります。
どちらも橋の西から数えて2つ目の擬宝珠に刀傷はあります。
まず、北側の擬宝珠から見てみましょう。
下の写真が、その擬宝珠ですが、ちょっと見ただけではよくわりません。
近付いて、擬宝珠をじっくりと見ていくと刀傷らしきものを発見しました。
下の写真の白い円で囲んだ部分がそれです。
ちょっとわかりにくいですが、右下がりに刀で切ったような跡が残っていますね。
次は、南側の擬宝珠です。
南側の擬宝珠も一目では、刀傷がどこにあるのかわかりません。
近くに寄ってみると北側よりもわかりやすい刀傷がありました。
南側の刀傷は右上がりについていますね。
池田屋事件というと建物の中だけで、新撰組が浪士たちを斬ったというイメージがありますが、中には池田屋の外に出た浪士もいたので、三条大橋で斬りあいになった可能性も十分に考えられます。
江戸時代についた傷が今でも残っているというのは、感慨深いものがありますね。
しかし、ここで少し気になることが。
三条大橋は、江戸時代に何度も流失し、そのたびに幕府によって修理が行われました。
また江戸時代以後も修理は行われており、昭和25年(1950年)の改造によって、現在の姿になりました。
ということは、擬宝珠も昭和になって造られたものということになるのではないでしょうか?
三条大橋の東側に橋の解説が書かれた京都市の立て札があるのですが、それを読むと擬宝珠は、天正18年(1590年)に造られたものと昭和に造られたものが混在しているとのこと。
三条大橋の擬宝珠は、どれも同じようにしか見えません。
ただ、京都市の立て札によると擬宝珠には「洛陽三条の橋は・・・」といった銘が刻まれていると書かれており、刀傷が残っている擬宝珠にもその銘があったので、天正のものと思うのですが、全ての擬宝珠に同じ銘が刻まれていたら、天正の擬宝珠か昭和の擬宝珠か見分けが付かないですね。
全ての擬宝珠の銘を読んだわけではないので、違いがあるのかどうかはわかりません。
(2010年4月11日追記。昭和に造られたと思われる擬宝珠の銘は、天正のものとは違う銘が刻まれていました。)
それと刀傷についてもう一つ疑問に思うのが、北側も南側も西から数えて2つ目の擬宝珠に痕が残っており、しかも両方とも橋の内側に向かって斜めに斬られているということです。
誰かが意図的に傷を付けたような感じがしませんか。
これ以上疑うとロマンが無くなってしまうので、この辺で終わりにしておきます。
なお、三条大橋の刀傷の解説は、橋の西側の弥次さんと喜多さんの像の近くに三条小橋商店振興組合の立て札に記載されています。
三条大橋と池田屋事件については、以下の記事も参考にしてみてください。