安土桃山時代の茶人として有名な人物といえば千利休ですよね。
千利休は、豊臣秀吉の帰依を受けて茶道を普及させていき、天正15年(1587年)には北野大茶の湯といった一大イベントに深く関わるなど、秀吉との仲も非常によく、政治についても秀吉の良き相談相手でした。
ところが、利休は天正19年に秀吉から突如切腹の命を受け、70歳でその生涯に幕を閉じました。
派手好きの秀吉と地味な利休
豊臣秀吉は派手好きだったと言われています。
東大寺の大仏よりも大きな方広寺の大仏を造ったり、金の茶室を造ったりと財力と権力にまかせて贅沢三昧の生活をしていました。
そのような彼の派手好きは、自分が百姓の出身で、幼少期の貧しい暮らしがコンプレックスになっていたと言われています。
他方の千利休は、茶道の中でも簡素な茶の湯をテーマとしていました。この簡素な茶の湯は、江戸時代以降、わび茶と呼ばれるようになります。
このように元々性格が異なる二人なので、お互いに理解しえない部分があったものと思われます。
元々、利休は茶頭として織田信長に仕えており、彼の後ろ盾によって茶の湯を広めようとしていました。
しかし、信長が本能寺の変で亡くなった後、利休は茶の湯を広めるための後ろ盾を失います。
そこで、利休が茶の湯を広めるために次に接近したのが秀吉だったのです。
大徳寺三門の上に置かれた利休の木造
利休は、秀吉に仕えてから政治についてもいろいろと秀吉に口を挟むようになってきます。
最初の頃は、秀吉も利休の言葉を尊重していました。しかし、秀吉は、次第に利休の言葉を疎ましく感じるようになってきます。
また、利休にしても秀吉が造った金の茶室の派手さが自分の茶の湯の精神と食い違っていることに不快感を覚えます。
このように利休と秀吉の間には、いつしか溝ができ、時の経過につれてその溝が広がって行きました。
そんな時に事件が起こります。
利休は、自宅近くに建つ大徳寺の三門(金毛閣)の造り替えのための援助をします。
三門が完成すると大徳寺の住持であった古渓宗陳(こけいそうちん)が、利休に対する感謝の意を表するために利休の木造を造り、それを三門の上に祀りました。
それに対して秀吉がひどく怒ります。
秀吉の怒りの理由は以下のようなことだと言われています。
「高貴な方が通る三門の上に草履をはいた利休の木造を置くということは、高貴な方の頭を踏みつける行為と同じである」
そして、天正19年2月28日に千利休は切腹させられたのです。
千利休が切腹させられた理由には、以下の説もあります。
- 石田三成との政治的立場の違い
- 利休が茶器の売買で暴利をむさぼっていた
- 利休の娘を秀吉に仕えさせるのを拒否した
真相は定かではありませんが、これらのことが秀吉の怒りとなって少しずつ蓄積され、ある時点でその蓄積された怒りが爆発したのではないでしょうか。
いずれにしても千利休の罪はどれも大したものではありませんね。
なお、大徳寺の詳細については下記のページを参考にしてみてください。