中京区一覧

建武の新政の中心地は高級住宅街だった

元弘3年(1333年)5月に六波羅探題が滅びた後、5月23日には新田義貞により鎌倉幕府も攻め滅ぼされました。 新田義貞の挙兵は5月8日と伝えられているので、わずか2週間ほどの間に鎌倉幕府を倒したことになります。 もちろん、これは新田義貞の功績ではありますが、事前に足利高氏がその子の千寿王をわずか4歳で新田勢に加勢させ、それにより諸国から数多くの武士が討幕のために加わってきたことも瞬く間に幕府を倒せた理由でもあります。 ここに約150年続いた鎌倉幕府は終焉を迎えました。

他とは違う京都のお店の看板2

京都のお店の看板は、他の地域とは違っているものがあります。 悪く言うと地味、良く言うと落ち着きがあるといった感じですね。 全国展開しているチェーン店なら、どこも同じデザインの看板というのが普通なのですが、京都では景観に配慮して、派手目の看板設置を慎む傾向にあります。 京都市の景観条例もあるので、あまり古都の雰囲気とは似合わない看板は、設置を控えるわけです。 京都市街を散策中にいくつか京都特有の看板を見つけたので、今回の記事では、それらを紹介します。

秋のもの悲しい雰囲気となってきた六角堂の境内

秋は、どことなくもの悲しいですね。 そのもの悲しい雰囲気とぴったり合う場所と言えば、お寺ではないでしょうか? 夕方にゴーンと鐘が鳴るのを聞きながら、夕焼け空を眺めると秋だなと感じますよね。 京都では、どこのお寺も秋のもの悲しい雰囲気になってきています。 京都市中京区の街中に建つ六角堂の境内も、秋らしい雰囲気となっていましたよ。

2014年12月末で営業終了する京都国際ホテルに泊まるなら今のうち

京都市中京区の二条城の前に建つ京都国際ホテルが、2014年12月末で営業を終了することになりました。 よく二条城の周辺を散策するときは、このホテルの前を歩いたものです。 私は京都に住んでいるので宿泊したことはないのですが、ネットの口コミなんかを読んでいると、サービスも良くてリピーターの方も多そうな感じだったんですけどね。

2012年から2013年にかけて新規オープンした京都市中心部のホテル

近年、京都市内では、ホテルなどの宿泊施設の新規オープンが目立っています。 特に増えてきているなと思うのが、京町家を改装したゲストハウスや1棟貸の宿ですね。 ゲストハウスは、宿泊料金が安く抑えられることから若者や海外からのバックパッカーに人気があります。 ホテルについては、閉鎖するところもあるのですが、その数以上に新規オープンするホテルの方が多い感じです。 最近オープンしたホテルなんかは、四条烏丸や京都駅近くと便利な場所にありますね。 今回の記事では、2012年から2013年にかけて新規オープンした京都市中心部のホテルをいくつか紹介します。

後醍醐天皇の南都潜行

元弘の変(1331年5月)で、後醍醐天皇の討幕計画が鎌倉幕府に漏れたことで、関係者の日野俊基や文観(もんかん)などの僧侶が、次々に捕えられました。 討幕計画が幕府の知るところとなったのは、天皇の側近の吉田定房の密告によるもの。 吉田定房としては、討幕計画の首謀者が日野俊基であると幕府に知らせ、後醍醐天皇の地位の保全をはかったわけですが、8月になって幕府は後醍醐天皇の遠島、護良親王(もりながしんのう)の死罪、後醍醐天皇側の大覚寺統と帝位を争っている持明院統の量仁親王(かずひとしんのう)を御位につけることを決定します。 この幕府の行動を素早く察知した後醍醐天皇は、8月24日の夜に...

坂本竜馬はなぜ近江屋で暗殺されたのか?

坂本竜馬の暗殺については、その実行犯が誰だったのかということに関心が集まりますが、もうひとつ不思議に思うのが、なぜ暗殺された時、近江屋にいたのかということです。 近江屋跡は四条河原町の交差点を少し北に歩いたところにあり、そこから東に5分も歩けば、土佐藩邸跡があります。 坂本竜馬は、土佐藩出身だったのですから、わざわざ近江屋に宿泊しなくても、土佐藩邸にいれば良かったのではないかと思ってしまいます。

御池大橋の近くにある夏目漱石の句碑

明治時代から大正時代に活躍した文豪夏目漱石は、生涯に4度京都を訪れています。 最初は明治25年(1892年)の夏に友人の正岡子規と訪れ、その後、明治40年春、明治42年、大正4年(1915年)と京都に来ています。 最後の訪問の時は、京都市中京区の御池大橋付近の北大嘉(きたのたいが)という旅館に宿泊しています。

局長なのに粛清された新見錦と芹沢鴨

文久3年(1863年)に結成された新撰組は、当初は、芹沢鴨(せりざわかも)、新見錦(にいみにしき)、近藤勇(こんどういさみ)の3人が局長、つまり、組織のトップでした。 しかし、最終的には近藤勇だけが局長となり、他の2名は局長を降りることになります。 では、芹沢鴨と新見錦は、なぜ、局長を降ろされたのでしょうか。