源義経の奥州平泉への旅立ちの地・首途八幡宮
平治元年(1159年)に起こった平治の乱で、平清盛が源義朝に勝ち、以後20年以上もの間、平家の全盛期が訪れました。 しかし、清盛が亡くなって、すぐに平家は衰退し、壇ノ浦の戦い(1185年)で源氏に滅ぼされることになります。 その時、平家を滅ぼした源氏の武将が、源義経でした。
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平治元年(1159年)に起こった平治の乱で、平清盛が源義朝に勝ち、以後20年以上もの間、平家の全盛期が訪れました。 しかし、清盛が亡くなって、すぐに平家は衰退し、壇ノ浦の戦い(1185年)で源氏に滅ぼされることになります。 その時、平家を滅ぼした源氏の武将が、源義経でした。
毎年、春と秋に特別公開される京都御所は、雅な観光名所として人気があります。 しかし、京都御所は、今の雅なイメージからは想像できませんが、平安時代末期には、平治の乱の戦場となったことで知られています。
源平の争乱の始まりとなったことで有名なのが、保元元年(1156年)に起こった保元の乱です。 保元の乱の時は、まだ源氏と平家が戦うというよりも朝廷を中心とした争いに源氏と平家が参加したという形でした。 乱の原因は、後白河天皇と崇徳上皇との間の権力争いだったのですが、その争いに源氏も平家も身内同士で戦うことになります。 特に源氏は、父の源為義と長男の義朝が敵味方となって戦い、義朝の弟たちは父・為義につきました。 そして、その弟達の中には、弓の名手として知られる源為朝も混ざっていたのです。
京都市東山区の六道珍皇寺の近くに六波羅蜜寺が建っています。 六波羅蜜寺は、天暦5年(951年)に空也上人が開創したお寺で、無病息災、勝負運、金運のご利益があると言われています。
平安時代末期の源平の争乱は、壇ノ浦の戦い(1185年)で平家が滅亡したことによって終わりを告げます。 そして、平家滅亡によって源頼朝が鎌倉幕府を開くことになったわけですね。 源平の争乱は、簡単に言うと源氏と平家といった2つの武家の争いなのですが、そのきっかけを作ったのが、保元元年(1156年)に起こった保元の乱だったのです。
平安時代後期、若干2歳にして即位した天皇がいました。 それは、近衛天皇です。 近衛天皇の父は鳥羽天皇で、兄に崇徳天皇がいます。 近衛天皇は、即位した年齢が幼かっただけでなく、17歳という若さでこの世を去っています。
京都市上京区の北の方に扇町児童公園という公園があります。 そして、この公園のすぐ側に水火天満宮という小さな神社が建っています。 天満宮という社名であることから学問の神様の菅原道真と所縁のあることがわかります。 では、菅原道真とどんな関係があるのでしょうか。
平安時代後期、平家が権勢を誇っていた頃、夜な夜な五条の橋に体格の良い荒法師が出没していました。 その荒法師の名は武蔵坊弁慶。
京都で天神様と言えば、学問の神様である菅原道真のことを指します。 そして、菅原道真が祀られているのが北野天満宮ということもあって、受験の時期になると多くの受験生が合格祈願に訪れます。 でも、菅原道真を最初に祀ったのが、北野天満宮ではなく文子天満宮(あやこてんまんぐう)であるということは、あまり知られていません。
平安時代後期、近衛天皇の時代に、毎夜、都を騒がす生き物がいました。 その姿は、頭は猿、尾は蛇、手足は虎。当時の人々は、その生き物を鵺(ぬえ)と呼びました。