明智光秀の重臣斎藤利三の墓がある真如堂
安土桃山時代に明智光秀に仕えた斉藤利三(さいとうとしみつ)は、山崎の戦いで明智軍が羽柴秀吉に敗れた後、捕えられ六条河原で処刑されました。 その後、斎藤利光の遺体は京都市左京区の真如堂の墓地に埋葬されます。
観光名所、史跡、四季折々の風景を写真とともに紹介するブログ。※アフィリエイト広告を利用しています。
安土桃山時代に明智光秀に仕えた斉藤利三(さいとうとしみつ)は、山崎の戦いで明智軍が羽柴秀吉に敗れた後、捕えられ六条河原で処刑されました。 その後、斎藤利光の遺体は京都市左京区の真如堂の墓地に埋葬されます。
聚楽第(じゅらくだい/じゅらくてい)は、豊臣秀吉が京都の住いとして造営した建物です。 秀吉は、関白に就任した翌年の天正14年(1586年)から聚楽第の造営に着手します。 天正11年から大坂城の築城も始まっていたので、秀吉は一度に2ヶ所の大工事を実施したんですね。
福岡県の民謡で、酒席には欠かせない名歌として地元の人々に親しまれている黒田節。 黒田節は、貝原益軒(かいばらえきけん)が著した「黒田家臣伝」の母里但馬伝(もりたじまでん)に登場する逸話が元になっています。 その逸話が生まれた場所は現在の京都市伏見区で、御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)が建つ辺りです。
京都市下京区の四条烏丸から南西に少し歩いたあたりに五條天神宮という神社が建っています。 五條天神宮は、義経記(ぎけいき)によると、牛若丸と弁慶が出会った神社ということになっているので、歴史好きの方ならご存知かもしれませんね。 現在は、周囲をビルに囲まれて境内は狭くなっていますが、昔は広い寺域を有していたそうです。 でも、その広い敷地が都市開発に邪魔になったことから、境内を南北に貫く通りが造られました。
関ヶ原の戦いで、西軍を率いて徳川家康と戦った石田三成。 石田三成は、所領が少なかったため、毛利輝元を大将にして諸将を味方につけ天下分け目の戦いに挑みます。 もともと石田三成は、軍事よりも政治面で能力を発揮した、いわゆる秀才でした。 そんな石田三成が、当時、日本一の戦上手とされていた徳川家康と戦おうとしたのには、きっと、家康に勝てるという自信があったからでしょう。 その自信となっていたもののひとつが、おそらく、彼の家老の島左近の存在だったはずです。
京都府八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、古来より朝廷や武家の崇敬を受けてきた神社です。 そのため、石清水八幡宮には、歴史的に有名な人物から寄進された文化財が数多くあります。 例えば、本殿をぐるっと囲む塀も安土桃山時代に織田信長が寄進したものなんですよね。
永禄12年(1569年)1月5日の早朝。 京都の六条にあった本圀寺を三好長逸(みよしながやす)、三好政康、岩成友通の三好三人衆が攻撃しました。 これを本圀寺の変とか六条合戦といいます。 本圀寺は、織田信長が室町幕府15代将軍に擁立したばかりの足利義昭が仮御所としていました。
天正7年(1579年)5月27日。 織田信長の命により、法華宗と浄土宗の僧が安土の浄厳院(じょうごんいん)で宗論を戦わせた安土問答が行われました。 この問答は、最終的に浄土宗の勝利で終わったのですが、実は勝敗は、最初から織田信長によって仕組まれていたのです。
京都市上京区の寺町通に建つ阿弥陀寺。 ここは、歴史ファンの方なら、ご存知かもしれませんが、織田信長と嫡男の信忠のお墓があるお寺です。 織田信長は、天正10年(1582年)6月2日に家臣の明智光秀に宿泊していた本能寺を襲撃され、天下統一を目前にしてこの世を去りました。 燃え盛る本能寺の中で自刃した織田信長の遺体は、その後、見つからなかったと伝えられていますね。
京都市中京区の姥柳町(うばやなぎちょう)に呉服・和雑貨などの卸商社である和光株式会社があります。 卸商社なので、一般消費者とは直接関係することはあまりなさそうです。 ある日、和光株式会社の前を通りかかったところ、その駐輪場に石碑が置かれているのに気づきました。 何の石碑か気になって近づいたところ、それは、南蛮寺跡を示すものでした。