安珍・清姫の鐘が伝わる妙満寺
叡山電車の木野駅を出て南に約3分歩いたところに妙満寺という日蓮宗のお寺があります。 かつては、中京区にあった妙満寺は、昭和43年(1968年)に閑静な現在地に移転しています。 その妙満寺には、雪月花の三名園のうちの雪の庭があります。 雪の庭は拝観することができ、その際、安珍と清姫の鐘と呼ばれる道成寺(どうじょうじ)の鐘も鑑賞できます。
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叡山電車の木野駅を出て南に約3分歩いたところに妙満寺という日蓮宗のお寺があります。 かつては、中京区にあった妙満寺は、昭和43年(1968年)に閑静な現在地に移転しています。 その妙満寺には、雪月花の三名園のうちの雪の庭があります。 雪の庭は拝観することができ、その際、安珍と清姫の鐘と呼ばれる道成寺(どうじょうじ)の鐘も鑑賞できます。
京都市伏見区の伏見稲荷大社は、近年、海外からの旅行者に最も人気がある京都の観光名所となっています。 また、商売繁盛のご利益でも有名なため、正月には、多くの初詣客で賑わいます。 そんな伏見稲荷大社を訪れたとき、ほとんどの人がくぐるのが参道に建っている楼門です。 この楼門、建立したのは、豊臣秀吉です。
天正13年(1585年)に関白に就任した豊臣秀吉は、その翌年の天正14年に京都に聚楽第(じゅらくてい/じゅらくだい)の造営を開始しました。 聚楽第は、今はありませんが、かつて聚楽第があった場所には、それを示す石碑が立っています。 ただ、その石碑は、あまり目立つものではなく、気づかずに素通りしてしまう程度のものです。
本能寺の変(1582年)の後、織田政権の後継者となったのは羽柴秀吉でした。 しかし、これに織田信長の子の信雄(のぶかつ)は不満を持っていました。 織田家の後継者となるのは、信長と血がつながっている自分のはずなのに信長の家臣であった秀吉が織田家を乗っ取ろうとしていると思ったからです。 そこで、信雄は徳川家康に助力を頼み、秀吉と一戦交えることにしました。
現在の京都御所は、幕末に再建されたものです。 その形式は、天明の大火(1788年)の後に再建された時のものを踏襲しています。 宝暦事件のおかげで平安時代の姿が蘇った京都御所 かつて京都は政治の中心だったため、多くの戦乱を経験しています。 そして、京都御所も、戦乱に巻き込まれ何度も荒廃しています。 でも、時の権力者によって、京都御所は修復や再建が行われ、現在も存続しています。 織田信長もまた、荒廃していた京都御所の修復に尽力した政治家の一人です。
京都市内で最も有名なお城は、中京区に建つ二条城でしょう。 慶長8年(1603年)に徳川家康が将軍上洛時の居館として築城したのが、現在残っている二条城です。 この他にも、織田信長が築いた二条城もあったのですが、現在は残っていません。 織田信長、徳川家康ときたら、豊臣秀吉も二条城を築いたのではないかと思った方は勘がいいですね。
天正10年(1582年)6月2日。 京都の本能寺で、織田信長が家臣の明智光秀に討たれる本能寺の変が起こります。 本能寺の変後、主君の敵を討つため、後に豊臣秀吉となる羽柴秀吉が、中国の毛利攻めから急きょ上方に引き返し、山崎の戦いで明智光秀に勝利しました。 しかし、本能寺の変では、嫡男の信忠も討死したため、山崎の戦い後に織田家の家督を誰が継ぐべきか家中で争いが起こります。
戦国時代の終焉に大きく貢献した織田信長は、京都に20回以上訪れたことがあります。 最初に上洛した時には東山区の東福寺に陣を布き、亡くなった時は中京区の本能寺に泊まっていました。 特に本能寺の変が歴史的に有名なため、本能寺が信長在京中の定宿だったと思われている節がありますが、実は信長が定宿としていたのは上京区の妙覚寺です。
天正10年(1582年)に起こった本能寺の変で織田信長がこの世を去りました。 信長を討ち取ったのは家臣の明智光秀でしたが、その光秀もすぐに羽柴秀吉との戦いに敗れ戦死しています。 信長の死により織田政権を誰が引き継ぐのか、家臣団の中で争いが起こります。 有力だったのは羽柴秀吉と柴田勝家でしたが、秀吉が勝家を打ち取ったことで自然と秀吉が後継者となりつつありました。 しかし、これに不服だったのが、信長の子の信雄(のぶかつ)。 彼は徳川家康を味方に着けて、秀吉と決戦することにしました。 これが、天正12年に起こった小牧長久手の戦いです。
連日のように猛暑日を記録する夏の京都。 決して、夏は京都観光に適した季節ではありません。 でも、京都には恐怖スポットがいくつもあるので、ゾクゾクするような涼しさを求めるなら、夏に京都を訪れるのがおすすめです。 京都市北区に建つ正伝寺も、そんな恐怖スポットのひとつです。