清少納言が隠棲した東山月輪にある歌碑・泉涌寺

平安時代を代表する文化人に清少納言という女性がいます。 彼女が書いた枕草子は、徒然草、方丈記と並んで三代随筆のひとつに数えられていますね。 清少納言は、宮中で中宮定子(ていし)に仕えており、贅沢な暮らしをしていたという印象をお持ちの方が多いと思います。 また、清少納言は才色兼備であり、その賢さをひけらかすような面があって、嫌味な女性だったという噂もあります。 おそらく紫式部が書いた紫式部日記に「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍(はべ)りける人」という記述が残っていることが噂の出所と思われます。 実際に清少納言が贅沢をしていたのか、嫌味な女性だったのかわかりません...

天皇陵を訪れる・桃山編

京都には多くの天皇陵があります。 天皇陵と聞くと、広大な土地に埋葬されているといった印象があります。 でも、ほとんどの天皇陵が街中の一角にひっそりと残っているだけなんですよね。 それでも宮内庁が管理しているので、荒廃することはありません。ただ、王家の墓にしてはちょっと寂しいなと思えるものばかり。 しかし、京都市伏見区の桃山にある2つの天皇陵は、他の京都の天皇陵とは違い、とても大きい陵墓です。 ひとつは桓武天皇のもので、もうひとつは明治天皇のもの。 どちらも立派な天皇陵なので、一度は訪れておきたいところです。

京都市内最古の五重塔は醍醐寺にある

京都市内には五重塔が4つあります。 その中で最も有名なのは東寺の五重塔でしょうね。また、京都の風情を感じることができるのが東山にある八坂の塔ではないでしょうか。 そして、京都市内で最も古い五重塔があるのが伏見区の醍醐寺です。 他の3つの五重塔は室町時代や江戸時代に再建されたものなのですが、醍醐寺の五重塔は、なんと平安時代からずっと存続しているのです。

京都の米騒動で大騒ぎとなった長徳寺

一揆。 この言葉から連想するのは、江戸時代や戦国時代に貧しい農民が徒党を組んで、時の権力者に反抗することではないでしょうか。 時代劇でも、その場面が出てくることがあるので、江戸時代以前の出来事のように思っている人が多いはず。 でも、一揆は近代になってからも起こっています。 その代表例は、大正7年(1918年)8月に起こった米騒動で、京都でも大きな騒ぎとなりました。

後白河上皇と二条天皇が幽閉された平安宮一本御書所跡

二条城の北は、平安時代、平安宮の内裏があった場所です。 その南東には一本御書所(いっぽんごしょどころ)と呼ばれていた施設がありました。 一本御書所は、天暦2年(948年)頃から貞信公記(ていしんこうき)などの文献に登場するようになります。 その役割は、世間に流布する書籍を一部ずつ書き写して保管していたとされています。 他に一本書と呼ばれる1冊しかない本を納めさせて保管していたという説もありますね。 歴史的事件としては、平治の乱(1159年)と深く関係しています。

六波羅蜜寺の境内にある六波羅探題府の石碑

京都市東山区の京阪電車の清水五条駅から少し東に六波羅蜜寺が建っています。 この辺りは、平安時代や鎌倉時代には六波羅と呼ばれた一帯です。 歴史的には、平安時代末期に平家の邸宅が建ち並んだ六波羅第があった場所としてよく知られていますね。 また、鎌倉時代には、六波羅探題が置かれた場所でもあります。

初秋の早朝に参拝した石清水八幡宮

9月15日に京都府八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の勅祭・石清水祭の放生行事を見に行きました。 行事が行われるのが午前8時からだったので、その前に男山山上の本殿に参拝することに。 早朝の神社は静寂に包まれているので、心を落ち着けてお参りすることができます。

石清水祭の放生行事・2014年

毎年9月15日は、京都府八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で、勅祭の石清水祭が行われます。 勅祭というのは、天皇陛下からの使いである勅使がお供えを備えるために参向する祭礼のことで、勅祭が斎行されるのは石清水八幡宮を含めて全国で16社しかありません。 中でも、石清水祭は、賀茂祭と春日祭とともに三大勅祭とされています。 石清水祭は、15日の深夜から午後8時ころまで行われます。 今回、私が参加したのは、午前8時から行われた放生行事(ほうじょうぎょうじ)です。

後白河法皇にも効果があった。頭痛平癒のお参りは三十三間堂へ。

頭痛に悩む現代人が多いそうですね。 仕事でパソコンを使ったり、携帯電話の画面を長時間見続けたりといったことが理由といわれることがあるので、あまり目を酷使しない方が良いのかもしれません。 頭痛に悩んでいたのは、現代人だけではありません。 平安時代末期には、後白河法皇も頭痛に悩まされ、それが理由で平清盛が三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)を創建したとも伝えられています。

昔は奈良の興福寺に属していた八坂神社

京都市東山区の四条通の東の端に八坂神社の朱色の楼門が建っています。 この楼門を見ると、祇園に来たなと思うんですよね。 おそらく、旅行で京都に訪れた方が、この楼門を見ると京都らしさを感じるのではないでしょうか。 八坂神社は、貞観元年(876年)に奈良の興福寺の円如が創建した天神堂が始まりと伝えられています。 なので、八坂神社は、当初は興福寺の末社だったのですが、ある事件を機に比叡山延暦寺に属することになりました。