新熊野神社の今熊野猿楽図

京都市東山区に建つ新熊野神社(いまくまのじんじゃ)は、永暦元年(1160年)に後白河上皇が熊野権現(くまのごんげん)を勧請(かんじょう)し、法住寺殿の鎮守としたのが始まりとされています。 後白河上皇は、今様(いまよう)という当時の流行歌が大好きで、その歌謡集である梁塵秘抄(りょうじんひしょう)を編んだのはよく知られた話です。 それから約200年後、新熊野神社で足利義満が観阿弥と世阿弥父子の能を観覧しています。

初秋に歩いた背割堤・2025年

9月上旬。 京都府八幡市の背割堤(せわりてい)を訪れました。 背割堤は1km以上に渡り桜が植えられており、春には大勢の花見客が訪れます。 でも、桜が咲いていない時期は、ほとんど人がおらず、のんびりと歩くことができます。

金戒光明寺の春夏秋冬

京都市左京区の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、浄土宗四ヵ本山のひとつに数えられており、広々とした境内に立派な建物がいくつも建っています。 それら建物は、季節ごとに違った趣を感じさせてくれ、訪れる時期によって雰囲気が変わります。 今回は、金戒光明寺の春夏秋冬を山門を中心に紹介します。

第1回京都博覧会の会場となった建仁寺、知恩院、西本願寺

幕末に長州藩が京都御所を攻撃する蛤御門(はまぐりごもん)の変が起こり、京都市中では多くの家屋が焼失しました。 さらに明治になって首都が東京に遷ったことにより、京都はこのままさびれていくだけかと思われました。 しかし、長州藩士の槇村正直(まきむらまさなお)が、明治元年(1868年)より権大参事(ごんのだいさんじ)となったことで京都の復興が進み、明治5年には第1回京都博覧会が催され、京都に活気が戻り始めました。

琵琶湖疏水の力で日本で最初に路面電車を走らせた京都

日本で最初に路面電車が走ったのは東京だと思われがちですが、それはまちがいで正しくは京都です。 日本初の路面電車は、京都電気鉄道が明治28年(1895年)に七条停車場から竹田街道を南下する伏見線を走らせました。 東京よりも早く京都が路面電車を走らせることに成功したのは、当時の京都の事情を知るとなるほどと納得します。

粟生光明寺の圓光大師御石棺

浄土宗の開祖法然上人は、建暦2年(1212年)に亡くなり、東山大谷に埋葬されました。 東山には、法然上人が浄土宗の教えを広めた吉水草庵がありましたから、東山大谷に埋葬されるのは自然の流れと言えます。 しかし、現在、法然上人の石棺は東山大谷にはなく、遠く離れた長岡京市に建つ光明寺(こうみょうじ)にあります。

和宮降嫁を画策した岩倉具視が落飾蟄居した岩倉・岩倉具視幽棲旧宅

安政7年(1860年)3月3日に大老井伊直弼(いいなおすけ)が水戸浪士に暗殺される桜田門外の変が起こります。 天皇を敬い外国人を日本から追い出そうとする尊王攘夷運動が盛んな時期に白昼堂々と大老が暗殺されたのですから、幕府の権威は一気に失墜しました。 このままでは幕府が危ないと考えた久世広周(くぜひろちか)と安藤信正の2人の老中は、朝廷と幕府が手を取りあって国難を乗り切る公武合体に舵を切り始めます。

六角堂で誕生した華道の池坊

京都市中京区のビジネス街に建つ六角堂の境内の北側には、華道で有名な池坊(いけのぼう)のビルがあります。 池坊が、たまたま六角堂の近くにビルを建てたのではなく、この地が池坊と深いかかわりを持っているから建てたのだということは、六角堂と池坊との関係をご存じの方なら容易に想像できるでしょう。 六角堂を創建したのは聖徳太子です。 もしも、聖徳太子がこの地に六角堂を建立していなければ、池坊も誕生していなかったかもしれません。

娯楽を目的に誕生した新京極通

京都市中京区の地下鉄京都市役所前駅を出て寺町通を南に約5分歩くと、その東側に三条通から四条通にかけてアーケード街の新京極通があります。 通り沿いには、お土産物屋さん、ドラッグストア、服屋さん、飲食店、ゲームセンター、映画館、パチンコ店など、買い物や娯楽を楽しむための施設が軒を連ねていますね。 それもそのはずで、新京極通は誕生した時から娯楽を目的としており、今もその目的通りに栄えています。